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唄武者HEYMAの寄せましょ

FOXY→ピアニカ購入。

赤木→浴衣をクリーニング。

永瀬→ドラムヘッド交換。甚平新調。

宮内、森→弦を張り替える。

平馬→メガネ、ジャージ購入

これわかる? あのね、伊豆大島公演に向けて各メンバーがしてた事。 8月28日、哀しき一日をお伝えしよう。
前日、FOXYから「天気やばい」とのメールがあり、夜中にてるてる坊主を物干しにぶら下げた。
当日を迎え、雨は降っていないが風が強い。 心配の中シャワーを浴びてタオル一枚でいると、自宅の電話が鳴る。
「もしもし~」大島からだ。 「船が全便欠航です。残念ですが、中止です。」 「ハァ~~~……。」と俺。
あまりの脱力に腰に巻いていたタオルが床にはらりと落ちた。すぐさま各メンバーに 中止を伝える。
宮さんは電車の中で聞き、FOXYは荷物を肩にかけた時だったようだ。
とりあえず、寝る。いや、寝くさろうと。 昼過ぎに目を覚まし、夕方から残念会を開く事になった。
場所はリハーサルスタジオ近くの居酒屋。ホッピー夜の探偵団!臨時出撃である。
呑んで、食べて約3時間の宴を終了し何と! スタジオに入ろうという事になった。
やはり演奏したい気持ちは酒なんかで抑えられる訳がない。
受付に声をかけると、6つもある部屋が予約でいっぱいだというではないか!
土曜日の夜にリハなんかするな!
ここはラブホテルか!?ブサイクな女とセックスでもしてろ!
などと伝言を残し、自然とある所に一同は歩く。
「カラオケ」だ。ヤケクソだ。 風さえ無ければ今頃、1000人の客前でライブしてるはず。
なのに今、俺達は約6畳程の部屋に詰められている。 ヤケクソだ!
しかしねぇ、しかし楽しいんだなこれが。
特に永瀬の「吉川晃司。」森の「BOOWY」は、気合いが違っていたよな。まさに本日のハイライト。
さんざん唄いまくって23時に解散。 外に出てみると、やはり風はより強く吹いていた。
電車を降りて家路を歩いていると雨が降ってきた。 「台風16号の雨?」 「パイノパイコンバートの涙雨?」 「雨は雨なのかい?」
キャバクラの呼び込みを無視して俺は、空に問いかけた。
2004年8月28日最後の夜空は何も返事をしてくれない。 「・・・・・・・・。」 部屋に入る。
朝、床に落としたタオルは、少し乾いていた。

人前でライブしたのが高二の時だから15年前。
昔といえば昔の話だが、プロレスにのめり込んだのは今から25年前。
昭和55年くらいから。こりゃ古いわ! 猪木が「熊殺し」ウィリーと試合したあたりからね。
それから、ずっと同じテンションで見てきたわけ。
自慢したいことはた~くさんあるが、キリがないので割愛する.
今回、俺が声を大にしてもの申したいのは、
プロレスというジャンルが持っている「過剰な喜怒哀楽」が完全に総合格闘技(プライド)に移行している事だ。

何?とっくの前からそうだって?

違う。プロレスファンはすべてプロレスを軸にして事柄を見る。
たとえそれが、野球、コンサート、オリンピックであってもである。
つまり、観客が存在する競技・公演すべてが比較対象となる。
だからプロレスそのものが停滞していても、「こんな時もあるさ!」という感じで卑下なんかできない。
プロレス的にシュミレートする事だけで幸せなんだから。

だがどうだ!最近のテーマ無き「寄せ集め」的興業は!
貧弱なスキャンダルのせいでレスラーの人間味がまるで見えない。
こんな事を言いたくもないが、あえて言う!

「昔はよかった!!」

例えば、昭和56年からの数年間、タイガーマスクの登場で空前のプロレスブームが起こる。
なぜタイガーなのか? それは極めてシンプルだが、超人的な空中殺法で魅せるプロレスに徹したからだ。
ド肝を抜かれたとはこの事である。
佐山サトルは天才中の天才だ。

しかし思うとマスクマンは、自分の顔の表情を断たれている。
動きも「美しさ」に重きを置いており、現実・人間味という点では皆無といっていいだろう。
そりゃ子供は喰いつく。だが当時、大人のコアなファンもしっかり存在している。

なぜか?

それはタイガーマスクの真逆に、したたる血と汗をダラダラと流し、ヨダレを垂れ、
外国人レスラーの攻撃に悶絶している「燃える闘魂」が居たからに他ならない。

必殺!コブラツイスト。延髄斬り。攻めの猪木も輝いていたが、
いつからかやられている姿に色気みたいなオーラを発している猪木に夢中になった。

そう。

プロレスとは、「受ける」というもので勝負できる極めて稀なジャンルである事に気がついた。
その中にある種の「呪い」めいた狂気が混在しているのだ。

この呪いが、最近のプロレスにはまったく見あたらない。
例外のレスラーもいるが、ほとんどダメな奴ばかり。「その他諸々レスラー」といった感じである。
その点、過去の麗しき時代の全てのエッセンスをPRIDEは兼ね備えてしまった。
トップ4といわれている、ヒョードル、ノゲイラ、ミルコ、シウバ、この4人は、「強さ」「美しさ」「狂気」「呪い」、
そして俺が一番強いという意識が対立構造を作り、その「シンプル」な図式がビギナーでも入り易い環境を築いている。
プロレスとPRIDE。まったく違うジャンルである。
しかし昭和プロレスから、いわゆる冬の時代を通り、
馬場・猪木が不在となった平成のプロレスまで見続けてきたコアなファンは 「地熱」という部分での比較は絶対しているはずだ。
そして、チープに成り下がった現状に落胆しているに違いない。
この事実を団体レスラー及び関係者は気がついているのに、丸逃げ、丸投げ。

バカ丸出しとはこの事だ。

オイ!いったいどうしてくれるのだ! どうするプロレス。どうなるプロレス。 次回は、この辺を探ってみたい。

さて、前項の続き。ジャンルとして熱が無くなったプロレスについて考えてみる。

まず、非現実的な話になるが、野球のトレードのように団体間でレスラーを入れ替える必要がある。
くだらない交流戦は廃止。トレード後は固定され(フリー選手枠も)、定数制にする。
つまり各団体の中のみでストーリーを展開していくのがベストであると言える。
この枠に入れないレスラーは、マイナーリーグのようにライセンスを与えられず、 インディーレスラーとして活動しなければならない。
しかし2年に1度だけ見直され解雇・昇格を決定させる。

非常に難しく問題は山積みなのだが、これ以外に方法もないともいえる。
それとプロレス崩壊の大要因になったともいえる、諸悪の根元、「ドームプロレス興業」から身を引くべきだ。
ビッグマッチなら、、武道館/国技館/横浜アリーナなどで連日連続で打てばよい。
生観戦の最大の魅力はあのリングの音だと思う。
ボディースラムで投げられ、リングにたたきつけられるあの音が迫力を際立たせている。
ドームはあまりにも広すぎて迫力もへったくれもない。
あれならテレビの方がまだ伝わりやすいのではないか。

…で、そのテレビ中継である。現在メジャー3団体ともすべて深夜30分枠。
これは、短すぎるよ!!何とか60分にできないものか?
プロレスっていわばコース料理みたいなもので、オードブル、スープ、サラダ、メインと数を要するものなんだな。
テレビでは選手の入場から含め、3試合は放送して欲しい。

最近はこの入場シーンをすべてカットしたりしている。
まったく何もプロレスをわかっていない編集だ。制作者サイドは反省すべきである。

▽愛すべきプロレスの未来への10箇条
 ○レスラー定数制
 ○交流戦廃止
 ○外国人レスラー発掘
 ○テレビ放映は60分に拡大
 ○試合数は6,7試合に縮小
 ○コスチューム、タイツなどのキャラクター設定の見直し
 ○ドーム興業撤退
 ○ヘビー級は大きく(105キロ以上)
 ○ジュニアヘビーは小さく(90キロ以下)
 ○4年に1度、オールスター戦開催

つまり、コミッショナーが必要であるって事なのだ。
~さて皆様、この続きは、ライブ後の打ち上げでお話しできればいいかなと。

プロレス好きな方々、是非声をかけて下さい。俺は待ってるぜ!

先日、色々お手伝いをしてもらったお礼にと、メンバーの赤木、森、永瀬の3名を連れて、居酒屋に足を運んだ。
「いらっしゃいますえ~。」 微妙なイントネーションながら、大きな声で言われると気分が良い。

2階に上がると、座敷テーブルが2つ。鰻の蒲焼きの様な座布団に鎮座する。
「生ビール4つ!」を注文するや、最初のカウンターパンチ。 完全無欠の発泡酒である。
そして、問題はこの「お通し」だ。 小鉢からハミ出す黒い物体は、魚の骨を油(超高温)で揚げただけの代物。
「これ、どうやって喰うんですかね?」と森。 「かじればいいんだよぉ!このダメ人間!」と赤木さん。
「かてぇ~なぁ。かて~なぁ。」永瀬がうるさい。
お通しは諦めて、ジューシーな「ツマミ」を食べようと、マグロ刺身、牛モツ煮、唐揚げを2人前ずつオーダー。

約3分後、なぜかすべての料理がテーブルに並ぶ。 ねぇ?分かるよね?
特に、唐揚げに至っては、笑いすらおこった。なぜ、酒の肴を見て、笑わなければいかんのだ。
んで、みんなのテンションを察してか、赤木さんがポテトサラダをひとつ注文。

なかなかの配慮と感心しているのも束の間、早くも登場である。
一般的なポテサラって、白色、もしくは、クリーム色してますね?
けど、こいつは色云々というより、何だ、もうウンコだ。混在しているキュウリが末消化物に見えるのだ。
ここまでくると、みんな変になっている。つまり、変人。
変人の皆様!もう戦いは終わりだ!酒飲みで行こうじゃないか!

その後、約1時間の宴。さてと、「お勘定して~。」 伝票に目をやると、なんと、\13,000!!!
こんな体験したい人、上野・不忍池近く、小さな赤提灯がたくさんぶら下がっている「居酒屋」です。
え~、鶏の唐揚げと、ポテトサラダ(ウンコ)の、注文を忘れずに。
春の風物詩といえば、今や国民病といわれている花粉症ではないかと思う。
私、もはや22年間もこやつに悩まされている。
何でも今年は去年の10~30倍の飛散だというではないか!昨日あたりから鼻や目がムズムズしている。

でね、過去たしか94年が最大の飛散量だと記憶している。
ボクが21才の頃、当時は葛飾に住んでいた。
花粉症は季節の変わり目から症状が出るのだが、慣れない生活の変化に上京して2、3年は胃腸も弱くホトホトまいっていた。
病気というのは、よっぽどでない限り別々のものが同時に発病する事はない。特に若者にはあてはまるであろう。
ところがアレルギーはどんな事があろうとも、気温が上昇し、風が強く吹けば必ず反応してしまうやっかいなものだ。

ある休日、ビデオ屋に行って「羊たちの沈黙」をレンタルした。
当時加入していたバンドは非常にタイトに活動していた為、休みを一人で好きにできるのは本当に貴重だった気がする。
だからビデオ観るのもゴージャスにと、酒屋で白ワイン1本、魚屋で刺身一皿、肉屋でステーキ1枚買い、チャリンコで家路へ。

部屋に着くなり早速料理にとりかかる。刺身はちゃんと皿へ移し、白ワインはカチーンと冷やそうと冷凍庫へ。
肉に下味をつけて、ニンニクをスライスして焼きに入る。
そんなにいい肉ではないが、レアで食べようと手早く調理した。
食卓には3~4品の料理がならび、ビデオをセット。そして冷えた白ワインを……。
あれ?ワインオープナーがない。あるべき場所に無いではないか!!
ステーキは肉汁を放出している。しかしワインがないとゴージャスな休日ではなくなる。
急げば10分以内でなんとかなるはず。チャリンコで酒屋へ。

「おじさ~ん、オープナー下さい!」
「あーちょいと待ってな。」
オヤジは奥でゴソゴソ。1、2分待ったが無事調達。さて問題はレアステーキの肉汁だ。
力強くペダルを踏み込み、アーケードを抜けて水戸街道を横断。家はすぐそこである。
ラストスパート!いわゆる「立ちこぎ」スタイルをとった所で、突然猛烈な鼻と目のかゆみ。
  「ブッハックション!!!」 超巨大なクシャミと同時にケツからあらぬ物が放出。いや大放出。

ワインの前に、己の肛門が開いてしまったわけだ。花粉症ならぬ、花糞ショウというべき状況。
平静を装いつつ部屋に到着。
汚れたパンツはゴミ袋へ、体はシャワーへ直行する。

風呂上がりのワインは格別であったわけだが、
「羊たちの沈黙」を観ながら、血のしたたる皿の上のステーキをむさぼり喰うクソもらし。
さしもの「ハンニバル・レクター」も逃げ出すに違いない。


3月某日。都内スタジオでレコーディング(以下、レコ)をした。
昼に集合してスタジオに入る。最初の1時間でウォーミングアップとマイクのセッティングをした。
「お馬鹿様サマ」から開始。しばらくテイクを重ねていたら、
エンジニアから唄も一緒に録音しましょうとの提案があった。
事前ミーティングでは唄入れは別にと予定したが・・・。
正直迷う。
しかし、その案に飛び乗る事にした。迷ったら飛べ!である。まさに一発中の一発録り。

通常レコでは「ドンカマ」といって、電子メトロノーム(クリック)音をヘッドフォンで聴きながらプレイするものだが、
俺はこいつをあまり好まない。
曲の中にはテンションの上下が必ずあるわけで、当然鼓動が早くなったり遅くなったりする。
ドラマーとしても言わせてもらえれば、差し詰め「人肌感」は、
この呼吸や心拍数で「揺れている」時に感じとれると言っていい。
だから個人的に好むアルバムに、LIVE盤が多いのはそんな理由があるからだと思う。
なのでメンバー全員「ノークリック」でやってもらった。
それとあえてレコの時間は短く設定した。
これは「鮮度」を大事にしたかったからだ。
ハンパに時間をかけてもロクな作品にはならない。
そりゃ1ヶ月間毎日スタジオに入れれば話は別だがね。

ついでに言えば、メッセージは1ミリも無い。 メッセージが無い事がメッセージなのか?
「悲劇の極地は喜劇なり」俺の好きな言葉だ。
「さよならだけが人生だ」ってのもいい。
この世は地獄であり天国でもある。
自分に絶望しているし、希望も持っている。
死んでしまいたいし、生き続けてもいたい。
この相反する(表裏)世界が、今回レコしたすべての曲に注入され、存在しているはず。
メッセージとしてではなく、質感としてキャッチしてもらえるとうれしい。

ちょいと抽象的な話になったので、最後に確かな事も記しておく。
今回発売されるCDのキャップ(帯)のコピーを紹介しよう。

   「鼻唄は裏切らない。」
皆さん完成を楽しみに。


今月もレコーディングのよもやま話をしよう。
CDを作るには様々な工程があるわけだ が、意外と難航したのがアルバムタイトル。
まぁ無理もないよな。名前だもんね。 アイデアとしての候補は山のようにあったものの、決め手に欠いた。
リハの時に発表 してメンバーのリアクションが大きいものをタイトルにしちまおうと。
で当日になって発表したが、やっぱり決まらなかった。(以下、ボツタイトル)

・星屑のバカ共
・ソフトサスペンス
・阿呆蛇羅ハミング
・百万年の夜だと君は云ったっけ?
・GOOD PIE
・これは、別として
・ノンアメリカン
 etc…etc…。

日が経ち、レコ後のファミレスでハンバーグを食いながら、あ~でもない、こうでも ないと。
そして、歌詞の中で気に入っている文句を提示してみた。これが、「バカに 薬を付けるバカ」
決定!との運びとなった。

2週間後、再びレコである。
基本は一発録りだが、Foxy/Nanako/ぎっちゃん/宮さんの諸々パートがあり作業に 入った。
オール全部が1テイクか2テイクで終了。 (ハミング系のコーラスのみ5、6テイクだったかな)
「うわぁ、皆さん実力派なんですね!」などと間違っても思わないで欲しい。これで 充分です!
とO,Kを出した私の勇気に拍手しておくれ。

録音が終了したら次の工程は、ミックスダウンに移る。この作業が成功と失敗のラインになるといっていい。
骨格のできた人形に「肉」を付けていく仕事。
いやね、何回も経験はあるが、こんなに笑いながら気を張りつめてやった記憶がな い!
「やるほどに偏差値が下がるな~。」なんて、エンジニアのN氏も話していた。
足かけ3日間に分けてミックス終了。
最後の方はN氏と2人で、悪ふざけ以外何ものでもない音にしたりした。
え?…もちろん採用ですよ!!

そんで同時に進行していたのがジャケット制作。
これはCDのまさに「顔」になる重要 な工程なので、専門でキャリアのあるyossに依頼した。
2月下旬に自宅に招いてミーティングをして、郵送のやりとりをした後、4月末に yoss LABで制作に入った。
今のPCはすごいネェー!こちらの無理だと思っていた要望がいとも簡単に実現できる。
すごいスピードだ。BGMがヒムロックなのも変なテンションにしてくれたようだ (笑)。
とはいえ1日で終了できる訳はないので、残りはyossひとりでお願いしてもらった。
ジャケット写真を撮影してくれたのが、カメラマンYumi。
彼女お腹に赤ちゃんがい て、体調に波があり、1回は辞退の申し入れがあったのだが、
直接仕事場に押しかけ て無理をお願いして実現できた。
由美ちゃん、本当にありがとう!!
この2人の協力がなければ、パイCDの外身はなかったわけである。感謝!感謝です!
あと、出来上がってもないのに、ある会場で5枚も予約が入りました。
きっと喜んで いただける作品にしますので、もう少しお待ちを!
そして、レコ発が2005年7月16日/東京・四谷天窓にて行う事が決定しました!!
残りの作業も妥協せずに迫力のバカサウンドを作り上げてみせます。


邦楽をよく聴く。日本のロック(本物の)が好きなんだな。
やはりダイレクトに「言 葉」が直進して来るのは日本語なんでね。
14才の時にショックを受けたザ・ブルーハーツ。このバンドは1曲1曲のすべての言葉 がとてつもなく強かった。
時が経ちブルハは解散して、ザ・ハイロウズとなる。
当時バンドの変化に驚いたわけだが、言葉という視点からみるとハイロウズは、
「一 言(ひとこと)」で各曲が決まっている。

例えば↓
「バカは不幸が好きなんだ~」
「ロックが死んだなら そりゃロックの勝手だろ」
「からっぽに見えるけど キレイに澄んだ水がある」
「翼を持って生まれるよりも 僕はこの両手が好き」

あ~しろ、こ~しろと謳ってないのがイイ。
これらは曲中にある詞なのだけれど、様々なアーティストを聴いていると、
名曲と思われる曲は始めの言葉、つまり「出だし」がすごい事に気付いた。
以下抜粋してみる(作詞者名)。

・今日は一日 本を読んで暮らした/忌野清志郎
・夕暮れの町でボクは見る 自分の場所からはみ出してしまった多くの人々を/高田 渡
・こんなとこ来た事ないけど なぜか来たのが橋の下/どんと
・だが、君は帰って来ない/友部正人
・たどりついたらまずはお茶をすする/中川敬
・僕の話を聞いてくれ 笑いとばしてもいいから/真島昌利

ん~!やっぱり字だけでもいいな。
リアルとフィクションが混在となっているでしょ。これらの曲をたまに聴くと、
自分 の頭の中にいきなりスクリーンが出てきて、その当時にタイムスリップしちゃうわ け。
名曲は時空を越える!
記憶は名曲で甦る!
これを元に考えてみると、名曲って数年経過して再評価を受けたものに限るといっていいのではないだろうか?

願わくば5年後10年後に、パイのCDがあなたを2005年に戻らせる事ができたなら、
本当に俺はすべての欲望が停止するくらいの「よろこび」を得られるだろう。
だから自分から「ポロリ」と出没した言葉をもっと大切に扱ってあげたいとも思った。

(曲名:順通り)
・山のふもとで犬と暮らしてる/RCサクセション
・夕暮れ/高田渡
・橋の下/ローザルクセンブルグ
・夜よあけるな/友部正人
・たこあげてまんねん/ソウルフラワー
・チェインギャング/ザ・ブルーハーツ


自分が東京に上京するまでの18年間、家から約100歩で海があり、
同じく100歩で山という環境で育ったせいか、
高校時代あたりからそれと相反する「場末」的なものに憧れたりした。
意味もなく新宿のヤバそうな裏路地、浅草の呑み屋通りを歩きながら、
「くたびれた街」を見るのが好きだった。
湯気といえば温泉の煙しか知らなかったのに、焼き鳥屋のそれや、
何の蒸気だかわからない「すえた」煙に巻かれている自分がとっても大人になった様な気がしていた。


それからもはや17年経った現在はどうかというと、なるべく「そっち」には近づきたくなくなっている。
街には目的がなければ足を向けない。いや、向けてなるものかとも思っている。
目的もなく自分が「無」になるのは海に浮かんでいる時だし、
意味もなく遠くを眺めるには山が最高であると気づいたからだ。
「癒し」「ストレス解消」だのを理由に先付けしている内は、
「目的」という聞こえのいい「囲い」から本質的に解放されていないのではと思ってしまう。
当然、何を思い何を感じたかは後付け(こちらは聞こえが悪いがね)でしかるべきだ。


先日パイの企画に参加してくれた好事間氏に楽屋で聞いた話。
彼の友人にエライ風俗好きがいて、頻繁に通っているという。
金が無い折に行ったのは場末のソープランド。
お相手のお姉様は、姉様とは程遠いヴィジュアル。
しかしながら、サービス前トークが抜群の内容だったので紹介しよう。

 ババァ「あのね~、アタシも若い頃は超高級店で働いていたのよ。」
 友人 「有名人とか来る店なんですか?」
 ババァ「そうよ。VIP相手なの。名前は言えないけどネ。」
この友人はVIPと聞いて、政界/スポーツ界/芸能界の大物だと思い、
話のネタにと人物を聞き出そうとせっついた。

 友人 「一人だけでも教えて下さいよ~!」
 ババァ「しょうがないわね~、内緒にできるかしら?」
 友人 「だ、だ、誰ですか?」
 ババァ「……サンタナ。」

え~っ!!つまりカルロス・サンタナ。よりによってギターの神様である。
哀愁はヨーロッパだけだったのか!!よくよく考えると、
文字通りこの友人とサンタナは兄弟となったわけだ。
そして「場末のBLACK MAGIC WOMAN」の称号をババァに与えるべきだよなぁ。
サンタナ来日目的外目的!!!!
これには俺の屁理屈もまったく歯が立ちませんでした。
「解放?」「快泡?」はたまた「貝宝?」
え~いめんどくせぇ!好きにしろ!!

サンタナ
本名:カルロス・サンタナ
ロックギターにラテンを取り入れたスタイル。
「神様」といわれる人気ギターリスト。
今だに来日公演は武道館クラスの大会場が即ソールドアウトするなどコアなファンを
持つ。


先月プロレスリングNOAH東京ドーム大会に行ってきた。前にこのコラムで
ドーム興行がジャンル没落の原因のひとつと書いた。
ドームは野球を観る所であり、プロレスには適所ではない。これ今をもって変わらないが
それにしても極上のプロレスを提供してもらった。
セミファイナルの小橋vs健介は今年のベストバウトだろうな~。

スポーツ競技全般にいえるのは、勝敗至上主義である。「勝てば官軍、負けたらサヨナラ」の世界。
団体競技のプロスポーツなんかは負けたら何億円もの金を積んで補強をするわけだ。(巨人嫌いだネ)
つまりそれだけ勝たねばならない。ゲーム性のおもしろさはあるにせよ、
このはっきりとした構図がファンの熱になっている。
しかし、自分が世の中で勝っているか負けているか判らないから、
きっぱりと勝負のつくものに一喜一憂するのでは、という見方もできるはず。
でなければ、サッカーの予選通過であれだけのファンが狂喜しているわけがない。
6月に行われたプライドGPでサクがボッコボッコにされた。完全に負けた男っぷりを、
世の中で曖昧な位置に居る男たちは凝視しただろう。
己の「負け臭」を感じているはずなのにそれと認めたくないわけだ。当たり前だ。
だってさ、この世はドロ水みたいに濁りまくっていて、社会に出ればボロ雑巾の様に働かされ、
収入はそれに見合わないと嘆き、
それでも世間を知らなくてはと米粒ほどのパソコンの文字や新聞を読みあさる。
そこで踊る情報は、ドロ沼にはまった殺人暴力事件、はたまた空気の様に見えない大金が、
「のっとり」という形で動いていたりする。
何だか東京の街そのものが、ドロ団子を積み重ねた亜熱帯砂漠と化して見える。

そんな世の中を基準にして、勝ったの負けたのを判断していいのだろうか?
このヘドロの様な社会、文明、文化、人によっては家庭も入るだろうし、
ヒフ感覚でいえば「通勤ラッシュ」なんてのもある。
ボクは思う。
諦めず世に対峙するのであれば、この不快感や理不尽な出来事を、「受け。」なければならないと。
ディフェンス、オフェンスの横文字の類ではなく、目をそらさず見て、耳をふさがず聞き、
負け臭を感じても鼻を鳴らす、「受け。」である。

プロレスは受ける事で成立している稀なジャンルと前に書いた。そういった部分で、
小橋vs健介の試合は究極だった。
結果は小橋が勝ちを拾ったが、勝敗は白と黒の色違いでしかなく、
むしろ激烈な技を受けまくった健介に高い評価が集まった。
プライドチャンピオンのヒョードル、シウバとて絶対にあれは受け切れないと思う。
素人だったらどうなってしまうだろうか?背筋が凍る。

題名にもあるが、あの興行は間違いなく光明を差す事ができる内容だったといえる。 まったくもってプロレスは、しぶといジャンルだとつくづく思った。


最後に、一緒に観戦した「Fuzzy Freaks」の伝歩から帰宅後に送られたメールを紹介
したい。
「逃げず、折れず、退かず、そして受けた上で己を貫き通す。強さとはそういうものだと教えられました。」
こんな事を感じさせてしまうパワーがプロレスにはあるわけだ!!
そして!我々が誘ったのに断りを入れやがり、深夜当日放映を見終えた、
パイのベース・ピンカーラから午前3時半に受信したメールも紹介しましょう。
「行かなかった事をすごく後悔してます。なぜ断ってしまったんだろう。」
こやつには、三沢のエルボー64発くらっていただきたい。


昨今のお笑いブームは、約20年以上前のブームを彷彿とさせる盛り上がりである。
私自身も、「笑いなくして何が人生ぞ。」というスタンスなので、いい時代なのかもしれない。
しかしながら感嘆に値する真の芸人は見あたらない。ほとんどがタレントロボットである。
今回恐れ多くも紹介したい、私の中での最高峰の芸人がいる。その名は、「ケーシー高峰」である。
凄さ、うまさ、デタラメさ、三拍子そろったまさに名人。
まず登場した所で、お客の大半が笑っているわけ。つまり秒殺なんだな。師匠の勝ち。
拍手万来で出てくるのだけれど、手を振って応えたりしない。ネタに入ると思いきや、
ジェスチャーでこの嵐の様な拍手を止めさせるのだ。
考えられますか?拍手をストップさせるんだよ!!

スタイルは「医学漫談」。マジでこの方は医者の息子さんなんです。黒板があり、チョークを片手にネタが進む。
ここでひとつ(質感が伝わるかな~?)。
『女性器ってのは年代で色別できるって知ってるか?医学的な根拠もちゃんとあるんだ。
10代は見事なピンク色、3,40代で少し色がくすんで来て、50代になると黒ずみが目立つようになる。
そんでな、もはや60代ともなると見事な「しょう油」色に変化する。
例えば、刺身なんぞ自身の性器にペチャッとつけて食す女性も現れる。
この現象を医学的に「キッコーマン」という。』
70才を過ぎたらどうなるのだ!この手の話を何のためらいもなく淡々と連発している。
元旦の初笑いだろうが関係なし。
私はこの名人芸に天井知らずの可能性があると思っている。ピン芸人というのも、
バンドという集合体で活動している者にとって、
リスペクトする要素が多分にあるんだな~。
ステージという高い位置から何かをする以上、表現者としてその場の空間に責任を持たねばならない。
ずばり言えば、非日常に導く事ができるかどうかで演者の力量が決まるのだろう。
しかしこの非日常の素は極めて厄介なものなのだ。なぜならこれ、日常に隠れている。
意識してなけりゃ素通りしてしまうくらいのもの。日々に流されていたり、
埋没していて都合よくキャッチできるもんじゃないのね。
道は険しいからこそ芸なんだろう。
芸事とサービスは違う。
ケーシー師匠はほとんど下ネタだから簡単なやり方で笑いをとっていると思う人もいるかもしれないが、
下ネタですべったら、オール全部がパァになるんだよね。
よほどネタを練って練り込んでいるはず。逆に最悪のパターンになった時の切り抜け方も想定しているに違いない。
けれど、下ネタは世界共通だし、ウケたら爆発する。笑いの爆弾をいくつも持っている自信が、
一挙手一投足に目を向けさせてしまうのだろう。
昔に加入していたバンドの打ち上げで、居酒屋のテーブルを高座にして、そのまんま師匠の漫談を披露していた。
ライブより盛り上がっていたのは言うまでもない。
当時ドラムをやっていなければ、本気でケーシー高峰の弟子に志願してたんじゃないかと思ったりする。

今日もどこかで、
「あのな~、バイアグラの副作用で最も気をつけなきゃならないのは、めまいであると。
これが本当の「立ちくらみ」だ。」
バンザ~イ!バンザ~イ!!私の愛すべき芸人/ケーシー高峰!!!最高です。


タバコの話をしたい。

ボクが初めて吸ったのは中学生の時だった。親父の赤ラークをつまんでと、よくある話。
その親父も還暦を過ぎて、今では1ミリのラークをスパスパと日に30本吸っている。
な~にその息子も2年前から1ミリのメンソールを1日5本(酒席で20本)。かわいいもんである。
パイのメンバーは全員喫煙者なんだけれど(フォクはノドのメンテで禁煙中。)、
男子3名はかなりのヘビースモーカー。
ピンカラは4~50本、みやさんは何年か前に肺を患ったのに、構わず常時タバコをくわえている。
そして、残るはぎっちゃんのエピソード。

3年前に、地方でドラムオンリーのライブをした事がある。その日のゲストにぎっを呼んで、即興で演奏した。
打ち上げも終了し、くたくたに疲れた彼は、テーブルの下で丸くなり寝てしまった。
朝方、「ケーッ」と気の抜けたニワトリの鳴き声のような唸り声がして、
目を向けると、お目覚めなんだがまだ半分以上眠っている状態のぎっ。
みんなでしばし観察していると、右腕だけスッと挙がり、
テーブルにあるセブンスターをパタパタと探している。
目はつぶったままだ。タバコにありつき、抜き取った1本を口に運ぶと、
今度は左手が伸びてライターをつまみ火を点けた。
「スッパーッ!」と思い切り吸い込んだ煙は、体内を折り返して鼻の穴から飛び出して来る。
朝から宇宙にでも行くつもりなのか?
しかも目は閉じたままである。一同ア然としていると、むっくり身体が起きあがり、
ふた口目を吸うかという時に、パッチリ目が開いた。
「おはようございます。」完全ニコチン中毒者の一日はこうして始まるわけだ。
ぎっちゃんの臓器には「セブンスター」の刻印が押されているだろう。


さらにベテランの話に移る。父方の祖父(チェインスモーカー)が存命中のエピソード。

ある日、幾度も禁煙を失敗していた祖父は、一大決心を誓うのだと、
先祖代々が眠る墓に禁煙の報告に出向いた。
出発前に家の者が車で送るというのを、「個人的な問題だからな。」
と往復一時間の寺まで歩いて行く気合の入れよう。
しばらくして、汗ばんだ祖父が帰宅した。家族は飲み物を用意しに台所に急ぐ。
茶の間に戻ると、あってはならぬ光景を目にしてしまう!
禁煙宣言を完尽した祖父は、この「やりとげた感」に早くも油断し、タバコを吸ってしまったのである!!
さんざん叱責されたのは言うまでもない。相当カチンとしたんであろう、
もう一度寺に行くと家を飛び出した。
明治生まれの気骨というべきなのか?日も暮れて夕飯の時間も過ぎた頃、
息を切らした祖父が勢いよく帰って来た。
一日に2度もお寺に行く老人もそうそう居ない。坊さんが見ていたら、
さぞ不思議に思った事だろう。

少しだけ遅い食事となった。

タバコをやめると、味覚が鋭敏になり、食欲が増して肥満の原因になったりする。
摂取カロリーを管理しなければならない。協力者が必要なんだな。
きっとこんな事も思いながら家族が食後のお茶を入れていると、
事もあろうに威風堂々旨そうに煙をくゆらす半笑いの祖父が!!
「ちょ、ちょっとおじいちゃん!タバコ!」
「・・・・スパ~ッ。・・スパ~ッ。」
「どういう事なのいったい?」
詰め寄る家族一同。
そして、ゆっくりと口を開いた祖父がこう言った。
「寺には、もう二度と禁煙はしないと誓って来た。」

愛煙家にも嫌煙家にも捧げたい実話である。バカだね~。



さてと、今回は「酒」をテーマに話そう。とりあえずウィスキーでもなめながら書くとする。


僕は毎日常飲しているタイプではないが、休前日は何があっても絶対に飲む。
ふと考えてみると、この週末飲みは高校2年から始まっていた。
つまり約16年間もこのサイクルは続いている。飲み方も変われば、好みも随分変化したと思う。

高校時代は必ず地元の友人宅で、深夜番組の「イカ天」を観ながらビールをやり、
それからはCDをかけ、バーボン(ローリングK)1本片付けてザコ寝のパターン。
上京後も2年くらいこんな感じだった。この頃は、酒ならば何でもよかったんじゃないかな。
早く酔いたいだけだった気がする。今でもそうかもしれない。
「照れ」っていうのがあるじゃない?この照れの「間」が、
酔ってしまえばすごく滑らかになって、会話もスムーズになるからね。
ところが当然その逆のケースもあるわけよ。どちらが良い・悪いでなく、
人と人の相性の問題かもしれないね。
必ずトラブルになっちゃう人達も居た。この場合どうすれば良いのか?
答えは簡単極まりない。
一緒に呑まなければいいのだ!単純明快でしょ。

酒席で最高の肴といえば、会話であり、笑いであると確信をもって言える。
特別に酒をあおりたいのでなく、笑いたいから酒にありつこうとしているのだ。
これってすごく健康的だと思わない?
世の中には一晩で百万払って、ホステスだのホストだのに見栄を張って、
ドンペリを身体に流し入れているだけの人が大勢いる。
仕事や家庭のストレスを酒場に持ち込んでグズグズになってる奴なんかぁ、どれだけいるのだろう?
実際、自分もそういう時期が20代の頃にあったから言えるけれど、
何か気持ちの問題を酒で紛らわそうとした所で、1ミリも進展はしないし、
何ひとつ解決はしないという事。
無様なだけだ。無様もたまになら仕方ないが、
「あぁ~俺は無様だったナ~。」と気付くようにならないと、
アル中→廃人街道まっしぐらになるので注意していただきたい。

高校2年から今までに、どれくらいのお酒を呑んだのかなぁって、ふと思ったりする。
きっとお酒のおかげで、コップでは計りきれないほどの「笑い」が溢れていたに違いない。

お腹が減るくらいに、腹の底から笑えれば、それだけで最高なんだな。
死ぬまで1回でも多く笑った者勝ちだよ!
もっと笑いたくてと、思い半ばであの世に行ってしまった人の分までボクは笑っていたいと思う。
さて、テーブルの上のウィスキーが空いたので、この辺で失礼するよ。旨い酒を呑んでね。
窮地に追いやられた人間が、「この歌に救われた。」とよく言う。
しかし、俺はまったく救われなかった。無理もない、音楽を聴けなかったのだから。


「事故」
12月始め、実家近くの横断歩道を歩行中、20才男の運転する原付バイクに追突された。

市内の病院に運ばれるも状況は厳しく、伊豆の国市にある順天堂大病院へ救急車でランデブー。
車内約一時間「血ヘド」の海となった。
レントゲン結果は、アゴの骨をメインに計4ヶ所の骨折、むち打ち、左下肢挫傷など。
文字通りケガのデパートとなってしまった。

「手術」
事故から3日後に手術。全身麻酔なので、鼻と尿道に管を挿入。人生初の「チン管」だ。
当初3時間のオペと告げられていたが、やっかいな骨折のようで、トータル6時間もかかっていたらしい。
麻酔が切れてすぐの第一声は憶えている。「酸素吸入!」
これじゃまるで医者のセリフではないか。なにせ、口内上下にビスを打ち込み、
ワイヤーで口が開かないように完全固定されている。
苦しくないわけがないよ!その後4日間は痛みとの闘いだった。
固定とは別に骨は金属プレートでつなげ、口内外で3ヶ所メスが入った。
顔は倍に腫れているのに、体は日々細くなっていく。
どうなっちまうんだ、俺は。

「薬」
とにかく痛くて寝れない。おまけに毎日ティッシュが空になる量の血ヘド。
しかし、このガマンが復活への近道と、泣き言を言わず、
担当医の診察にも「ボチボチですヨ~。」と強がってやった。
そしたらこのドクター、
「すごいなぁ、ここの部分の骨折は激痛ベスト3に入るのですけどねぇ。」・・・なんて事だ。
その日の午前4時、とうとう限界を超えてしまう。ナースコールのスイッチを押した。

「イタクテネムレマシェーン!」
ナース来る。手にはビニール製の手袋とロケット型の薬。
やおらパンツを下ろし、横向きにされると、ロケットがケツの穴に突入。
「2005年宇宙の旅」さながらだ。
ナースは言った、「ガマンは駄目です。治りが遅くなりますよ。」痛みと回復の因果関係を聞いた。
つまりは、この俺の3日間の悶絶は何だったんだ!!
それから5日間、毎夜「宇宙戦争」ですよ。スピルバーグもびっくりよ。
しかしね、冗談抜きでこの坐薬に救われたと断言できる。

「音」
冒頭文に戻るが、音楽は退院する2日前に聴いた。なんとなく、
このまま音に接しなくなってしまうと思ったので、
無理矢理ヘッドフォンを耳に押し入れた。一曲かけてはストップを繰り返して、
耳ざわりの良い曲を選んでいた。
音楽をキャッチするのも体力は必要なんだ。
「何気なくメタリカ」なんてとんでもない!ましては、
バンドへの復帰も時間がかかるのではと、この時点で少し悟ってしまった。
(現在は、ジャズとクラシックがヘビーローテである。)

「食」
「食は命なり」祖父の教えである。人間は食うが基本。食べれれば何とか大丈夫だと。
いいもの食べたけりゃ金を稼げとね。
これを全部断たれてしまったのだ。主食(?)は、重湯と牛乳、塩。まれに具のないスープ系が付く。
1日のトータルカロリー、約800cal。普段の30%程度だ。約20日間で8キロ体重が落ちた。
っていうか、萎んだ感じだね。太ってる人はうらやましいなんて思わないでよ。

体力・気力を少しでも戻したい気持ちがあっても、体が動かない。
こんな状態でまず最初にした行動は、車イスで屋上に行き、太陽の光を思い切り浴びる事だった。
生命の源のひとつである恩恵を実感できた。パクパクと「光」を食べていたんだな。

「発見」
味も素っ気もないものを毎度食していると、缶ジュースの甘さにびっくりしたり、
100%果汁の酸味が口に残り、半日もだ液が止まらなくなって困ったりと、
この状況でしか体験できない出来事もあった。
メニューのわずかな変化に、落ち込んだり嬉しがったりする。
人参の甘いスープは旨かったが、嫌いなトマトジュースが出ると、
「ふざけるな。」とつぶやいた(けど、飲んだよ)。
ここで食べ物を大事にしようと、説法たれなきゃならないレベルの人間が、
このコラムをご覧になっているとは思えないので、野暮な事は言わない。
けれど一つだけお伝えしたい。
たかがベッドの上だけの世界でも幸せはしっかり転がっている。
だが、都合よく医者に頼って、導いてくれる程甘くはない。
幸せをキャッチするかは自分だという事を強く感じた。
それでも、家族・メンバー・友達のぬくもりは、お腹の中にたくさんあるのだ。
消化されてウンコになったりしないのだ。

「今後」
残念だが、そう簡単にステージに上がれそうにない。転院先で再手術を告げられてしまった。
またこれを味わうのかと思うと正直、ボーッと考えてしまう。しかし逃げていては先に進めない。
着実な治療を重ねていこうと思う。両親には迷惑をかけてしまう。
特に母親は毎日のように車をとばして、着替えやら何やらを持ってきてくれるので大変だと思う。
そのかわり、物を食べれない息子の病室の中で、コンビニ弁当をザクザクと広げて、「これ、マズイわ~!!」と、
なんとも殺意を抱くコメントを残して帰ったりする。デリカシーの無さは、手術で治るものではない。
切ったの貼ったので良くなるならば、やってみせます!おっ母さん!!
2005年12月交通事故に遭う。再びの入院・手術となった。転院先は、静岡県・藤枝市立総合病院。
今月は更新できなかった「日誌パワーステーション」の特別編として寄せてみたい。

[一日目]
新幹線の窓から富士山が見えた。天気もよく澄んだ空気なのか、まさに縁起ものといった感じ。
静岡駅下車、東海道線に乗り換え藤枝駅着。ここからバスで10分でようやく病院に到着した。
手続き後、病棟へ(5A棟/脳神経、耳鼻、歯科口腔)。
またしてもベッドの上がスタートした。
買っておいた、「15人の黒澤明」を読む。夕方、メールが届く(この病院は通信はOK)。
こんな時に限って某ライブハウスから出演依頼だ。
何とも間の悪すぎるタイミングなので、話は進みようもない。眠剤を飲み、22時半に寝るも、朝の4時前に起床。

[二日目]
午後から手術なのだ。それまでウトウトしたり、ボーッとしたり。
そういえば、ザ・ハイロウズを聴いたっけな。いつもはノーマークの曲、「サンダーロード」が胸に響いた。
前回と違い、オペ前に音楽を聴く余裕があったのだ。
13時20分声がかかる。ストレッチャーで部屋を出る時、母親到着。手を振る母。
手術台の真上にある照明は何とも物々しい。すぐ麻酔に入る。
目を閉じれば終了まで意識は何もない。手術箇所が直前に一つ増えている。
左頬骨が2mm脱落しているのを回復させる。ここにもボルトが入る。それ以外は前回とほぼ同内容だった。
約5時間のオペは無事終了。目覚めの一声はまた覚えていた。
「歩いて帰りますから!」
どこに帰りたかったのかは、俺にも不明。
ものすごい激痛が襲う。あまりの痛みに意識がとんでしまった。
ノドに詰まった血のせいで呼吸もままならない状態となり、ICUで処置となった。
3分に1回、チューブを入れて、血液を吸い取ってもらう。
みかねたドクターが、痛み止めの筋肉注射を打ってくれた。
横を見ると、いつのまにか母が心配そうに座っていた。約10分後、この猛烈な痛みが嘘のように消えた。
あの注射はいったい何だ!
そしてすぐ、口は動かせないものの、話す事もできた。母はずっと食べ物の話をしている。
時刻は20時を回っているから、さぞ腹が減っているのだろう。帰ってもらう事にした。
目線の正面にカメラがぶら下がっている。
普段なら気分が悪くなるものだが、この状況だと逆に安心していられる。3,4時間落ちる様に寝た。
目が覚めるとチンチンが痛いのだ。早々に管を抜いてもらいトイレへ。
小便したら悶絶!タバスコが通過している感じがするではないか!
ゆっくり時間をかけて「チョロ出し」。思わず便座にへたり込む。
「男は痛みに弱いでしょ?」とナースに聞いたら、
「出産経験のある女性は強いですが、そうでない方は弱い人が多いですよ。」
と言う。子供を産むってすごいんだね。

[三日目]
昨日は台風と地震と火事がいっぺんに来たような一日だった。
ICUを正午に出て、一般4人部屋に移動となった。
言葉は悪いが、当然バカも入室する。バカもケガや病気になったりするのだ。
このバカ、首に「コルセット」を巻いている。
何でも仕事中に居眠り運転して自爆したというのだ。実に気の毒だが、バカである。
このコルセット氏、四六時中TVを見てケタケタ笑ったり、禁止されているケータイ通話をしている。
おまけに、昼から「灯油ポリタンク」みたいなデブ嫁と、2,3才のコルセットJrが面会に来る。
言うまでもないが、弁当広げてギャンギャンと。
腹が立つ。しかし同じケガ人だ。自分へのテストだと思い、
知人からいただいたプリンも差し上げて、協調性のある大人を演じてみせた。
しかし!事件は消灯後に起こった。
バカの壁を破壊するほどの、コルセットイビキショーである!無理、無理、もう無理ですから。
深夜フラフラになってナースステーションに行き、事情を伝える。
「隣の部屋は無人ですから、そこで寝て下さい。」早く言えだ。

[四日目]
6時起床。とりあえずこの部屋は女性専用なので、元の部屋に戻された。
この際、個室(1日\5250)に移動するしかないと思い問い合わすと、何と満室という。まいったな・・・。
持続性の痛みはあるものの、前回の入院ほどのストレスがない。
なぜか?と考えたら、点滴による抗生物質の投与方法が、前は針を24時間入れっぱなし。
しかし、ここは一日二回(朝・夕)の短期集中で行う。この差は非常に大きいのだ。
元来、注射嫌いなので、太い針がず~っと体に刺さっている事にずい分とストレスを感じていたのである。
しかしだ、コルセット一家フィルハーモニーは止む事はない。
夜、口腔外科のドクターが特別に昨夜の部屋に移動してもよいと伝えてくれた。
夜逃げの如く荷物をまとめた。大部屋にひとり!さすがに安眠できた。迅速な対応に、感謝である。

[五日目]
「シーン・・・・・・。」静かな空間だ。事故から約2ヶ月の事が頭をよぎる。とにかく、
「痛み」のリスクは想像を越えたものだった。
この際、日本語として存在していない、「激痛」よりさらに上の痛みを表す言葉を早急に作ってもらいたいものだ。
そのくらい激烈なのだから。
ポケ~っと半日、いくつか思いついた。最特級のどうにもならない痛みを表した言葉、「巌痛(いわおつう)」。
ね?たまらない感じするでしょ?小学館あたりに申請するか。
そして夕方になり、今回のオペ最大の謎、「例の注射」である。
指示を出していた先生にエレベーター前でばったり会ったので、「何ですか?あれは?」と聞いてみた。
そしたら、「あれは特上なんです。クセになるから一回きりだよ!!」と。クセになるのか・・・。
打たれた10分後に天井の模様が芸術的に見えたものな。ためしにもう一回打ってくんねぇかな~。
ピンクフロイドのMDは持参してあるからね。
消灯(21時)まもなく寝た。朝5時痛くて起きてしまう(not巌痛)。

[六日目]
昼から母が面会に来るという。遠方なのでオペ日以来の来訪者である。母親といえども嬉しいものだ。
ボクが昼ご飯を食べている時にやって来た。すぐに部屋を出ようとする母。
院内レストランでランチすると言っている。「待て」と。一緒に行こうと。

痛い足を引きずり、一階のレストランに出向いた。「エビフライ定食!」昼から栄養満点すぎるじゃないか。
しかし、売り切れだと言われた。「じゃあ、ラーメンとサラダ。」
まぁズルズルと麺をすすって、パリパリと野菜をうまそうに食べる人だ。
ボクはまだ固形物がNGなので、うらめしい~。
食べ終えて一言、「おいしくもまずくもない。」・・・・・あ、そうですか。
病室に戻ると、何やらガサガサとカバンの中を探している。バサッ!!
ベッドの上に現れた物体は、何と積木のようなカステラであった!
「これなら食べれるでしょ?」・・・・・あ、けっこうです。
何てことない、自分の食後デザートだったわけだ。持ち帰って欲しかったが、
機嫌が悪くなるといけないので納めさせていただく。
文明堂以外のカステラを久しぶりに見た。小一時間くらいしたら、突然帰ると言う。
聞くと、途中下車して買い物をしたいようなのだ。
「じゃあ大事にしてね。」そう言い残すと、母は少し小走りで立ち去っていきやがった!!
普通に歩けよな。ホントにこの鬼畜ぶりにはあきれて物も言えない。
検温に来たナースが、「あれ?お母様はもうお帰りですか?」
「そう。薄情な親でしょ。」そうボクが言うと、「きっとお顔を見て安心されたから早く出られたんですよ。」
何と素晴らしいフォローというか、白い天使な見方なのだ!
しかし残念なのは、母はそんな甘い生き物ではないのだよ!
差し入れに雑誌を買って来たといって、その本を見たら、「女性自身」だったりするわけだ。
息子だぞ!娘じゃないんだぞ!

・・・と、なんかドタバタ劇な入院であったが、続きは「日誌」をご覧下さい。
2006年1月下旬~2月上旬あたりです。前号に続き、
親が「オチ」になってしまったが、やさしいナース、
信頼できるドクターに囲まれて(コルセット一家も居る)、まだしばらく治療ロードは続くのであった。


追伸=無事退院しました。
誰にでも冬の時代はある。
スケールの違いはあれど、変わり目と名の付く期間は、とてもしんどいものだ。
ボクが小学校6年生の時、新日本プロレスは危機的状況となった。長州力を筆頭に、
選手の大量離脱があり、目玉となるレスラーが抜けてしまう。
こんな時のアントニオ猪木はすごい。マスコミにこう言い放ったのだ!
「大そうじができた。」
なかなか言えないセリフである。当時、子供ながらに感心した。

その年の秋、ボクの住んでいた町に、新日本プロレスがやって来た!!
前の日はドキドキして眠れなかった記憶がある。天下の猪木が生で見れるともなれば当然の話か。

当日の朝はむやみに早く目が覚め、午前中には電車に乗り、「南伊東」下車。会場の伊東青果市場まで歩く。
会場が見えると気分が高まり、少し小走りになった。
ボクのセンチメンタルな思い出といえば、女の子に恋した気持ちよりも、この「小走り」のような気がしてならない。
なぜなら今、プロレスに行く事すら無くなってしまったからだ。

昼あたりに市場に着くと、あとはひたすら選手バスを待つ。手にしているカメラは汗で少し光っていた。
PM3:00バス到着。やみくもにシャッターを押す。有名無名など関係ない。
当時、若手のブラックキャット(故人)からサインをもらった。これも今となっては貴重なお宝である。
そして本命の猪木はというと、バスにすら乗っていなかった。こんな肩すかしは逆に少年の興奮度を倍化される事となる。
「どこだーっ!」 「裏かーっ!!」
完全にテンションは上がり切り、鼻血がしたたり落ちてきた。手でぬぐうもんだから、顔面がカピカピしてしまった。
そしてPM5:00ネイビーのキャデラックが青果市場に現れたのだ!何とも異様な光景である。
車のドアが、ガチャッと開いた。指がこわばってしまい、シャッターが押せない。2m先に本物の猪木が歩いているのに。
この緊張感は、現像された写真を見るとよくわかる。猪木に限り、ちょっとヨレていたり、引きのアングルが多い。
人とは違うオーラみたいなものが充満していて、近寄る事を許されない空気に変わる。
これが、カリスマが持ち合わせている「何か」なのであろう。言葉で説明できない、また説明する必要もない存在。
周りがどうであれ関係がない、まさに放つスゴさ。これに少年は完全にやられてしまったのだ。
試合前なのに。歩いているだけで、打ちのめされてしまった。

もうこの場で、現在のプロレス界について語りたくもない。それはもはや愚痴となり、無駄話となるからだ。
ただ事実として、ひとりのプロレスラーに血の成分を変えられてしまう程に魅了された。
そして目を閉じると、あの「小走り」のもつれそうな、子供時代の身体の感覚が甦ってしまうのであった。

誰にでも冬の時代はあるのだ。消せない記憶で乗り切るしかない。
「理屈じゃねぇんだ。」って事を理屈で伝えねばならないところに、
大きな矛盾があるのだが、グチグチ言っても始まらないので書く。
ボクはロックが大好きだ。
中学生の時からずっと。根底の部分に変化はない。つまりはロックと感じるものなら何でも好きなのだ。
その部分を話すと、でかい音ってのはとても重要なのだと。
クラシックでも爆音だとビッシビッシくるのだ。無駄にでかいってのが良い。
それは無駄ではない無駄。こいつをあなどるなかれ。
貧相な無駄はロックはもとより、ただの雑音に成り下がり、
事によっては暴力にもなってしまう。気をつけてくれ。

ところで、その場に「でかい音」が存在していなくても、
たまらなくロックを感じるアーチストと出会う事ができた。
その名は、高田 渡(故人)という。
映画「タカダワタル的」は、ボクにとって価値観が崩壊してしまう程の衝撃であった。
この作品を企画した、柄本明氏が最後のシーンで、「渡みたいになりたいけれど無理なんだね。
なぜってそれは、欲の種類が違うんだ。欲が無い訳ではない。種類が全く違う。」と、
コメントしている。それにしてもリアルな発言だった。
ボクから見ると、渡はかろうじてステージに居て、かろうじて唄い、かろうじて生きているようだった。
けれど、それはまるで常識、一般、普通、というものを丸飲みしている「すごみ」を感じたのだ。
ただそこに、「かろうじて」存在しているだけなのに・・・。
そして渡は、公演先(北海道)でポックリと死んだ。

彼の近くにいた人々は泣いた。追悼文などを読むと、いかに愛されていた人物だったかがよく分かる。
根幹からロックを語る上で重要なポイントとは、この、愛されるかという事ではないのか?
そんな風にボクは思ってしまった。

 「ロックンロール」
(ロック)とは、物体など存在しているものを指す。極めて一人称的であるのだ。
他者が介在する必要はない。他人なんぞ関係がない、自分(個)だけの世界といっていい。
しかし、このロックの下にある、(ロール)となると真逆に動く。自分以外の目線や熱。
つまりは、そこに愛されている事実があるのか?となる。
例えばある無名の人物がロックを始めて、何とかステージに立ちたいと夢をみる。
やがてその音楽(表現)が、人の心を動かし愛される。
この瞬間こそ、ロックンロール!ロックの生まれた日なのだ。
ボクは、運命なんて無いと思っているし、あってたまるか!と、心底叫びたい。
死んでこの世から去っていかなければならない人が、「運命」なんだと片付けられていたとしたら、冗談じゃねぇぞ!
ボクはその仏の肩を持つだろう。
この世もあの世も関係なく、「忘却」が死である。つまり一人称となった状態。
けれど、例え一人でも思い続けている人がいたら、それは二人称となる。~百万人称とて同じである。
思いというものが、「生」を生み出すのだと信じている。

ロックンロール!!意味もなくのたまうだけとも違う気がするが、発する行為をしなければ届きにくい。
もしかしたら、忘れられてしまう、忘れてしまう。死は恐いもの
なのだ。忘却は恐怖といっていい。永遠のテーマなのかもしれない。こやつと対峙したい。
だからボクは、ボクがどうであってもステージに立つ。
ロックンロールは「生」であり、「死」なのだと思い続けている。
ロック者にはそこに橋をかける使命がある。
そうなんだ。先月のコラムの一部分を思い切り前言撤回する。
その部分とは、「 運命など存在しない」というくだりだ。

撤回したのだから、今は自分の中に運命はあるという事になる。ばっちりあるのだ。いや、ありまくる。
先月までの自分は「 死」 というものに考えが交錯してしまい、その矛先が運命という言葉に直撃してしまった。
10年も前になるが、家族の死というものに打ちのめされた事がある。
祖母の死だ。脳いっ血で倒れ、4年間も寝たきりに。
72歳で、まばたきだけしかできない身体になってしまった。
若い時から苦労した人だった。これから人生を謳歌する計画があったろうに…。ボクは密かに天を恨んだ。
その前後、友達の交通事故死や自殺などがあり、ボクは茫然自失寸前になっていた。

そして、バンドの仲間の転落事故死。
あるイベントで一緒になった4人組のロックバンドと意気投合し、次回開催のこのイベントで会うのを楽しみにしていた。

当日、リハの終わりに彼らを発見すると3人しかいない。
なんだ遅刻か?と奴等に問い掛けると、ボソッと『死んだんです。』…ボクは言葉がなかった。

その後、故人の御両親と親しくさせていただいているが、
実は生前中の彼とは1分しか会話をしていない。内容は忘れた。
フフフ~と、軽く笑っていた気がする。それからもう6年の月日が経った。
この6年間、いろんな人から様々なエピソードを聞いたし、ボクからも訊いた。
これらの話を総合すると、彼とはきっといい友達関係になっていたはずだ。
だから余計に、何故ボクより7才も若い男が死ななければならないのか!
彼は死んだ。ボクは事故に遭っても死ななかった。
この差はなんだ?偶然か?必然なのか?ずっと頭の中の一部分は混乱していた。
そしていつの間にやら、勝手に『運命』に当てはめていたのかもしれない。
先月のコラムを読んでハッとしてしまった。


まず認めなければならないのは、この世で死んだ人は居なくなるという事実。
精神論はそのずっと後だ。
成仏してもらう気持ちの前に、個人的な言葉による解釈を引き合いに出すのは、
故人やその遺族に対して失礼な事だと思った。


だから運命とは、自分が自分自身を思う『確認』なのだ。
他者に投げ掛けるならば、必ず他者が存在する状況(環境)でなければならないと思う。
死者はうなずかないし、また反論もできないのだから…。


冒頭に戻るが、『運命』はある。
なぜなら、その3人組になったバンドのリズム隊は現在、パイのパイコンバートのベースとドラムだ。
バンドマンの醍醐味は一期一会に尽きると言える。
パイは、メンバー全員がそれぞれ遠く離れて暮らしている。
たった数十分のステージの為に、休前日あたりからビューンと集まってくるわけだ。
つまり我々は非常に滑稽な事をしている。
だが、誰にでもできるってものでもない。日常を一瞬でも捨てられる強い人間の集まりだ。
だからこの巡り合いは、ボクにとって『運命』なのだ。
まさに化け物。

才能/運動能力/知能などを指しているのではない。
もう存在そのものが規格外なプロレスラー、 アンドレ・ザ・ジャイアント である。
223センチ/250キロ、多い時には270キロはあったという。なんと歯が40本生えていたらしい。
骨格からしてすさまじい。
あのアントニオ猪木がローキックを入れたら、猪木の足が骨折したという伝説がある。
ちなみにアンドレの足のサイズは42センチ!
本物のリングシューズを見た事がある。なんというか、小さい人間なら住めそうなくらい巨大なものであった。
当然、その体躯を維持するには尋常ではない食事の量なのだ。おまけに酒豪ときている。
札幌にあるジンギスカンの有名店で、大ジョッキ(800CC)を56杯飲んで、肉を20人前喰った。
ワインを注文する時など、普通はグラスかボトルで頼むでしょ?アンドレは ガロン でオーダーするらしい。

余談だが、スタン・ハンセンとハルク・ホーガンが当時脚光を浴びていたディスコ、
レキシントンクイーンで缶ビール400本飲んだ伝説がある。
200本超えたあたりで、お店側は勘定はいらないから二人がどれほど飲むのかビールを提供したという。
ウェイターがビールを運ぶのが追いつかないと、ダース単位で持ってきたらしい。
フロアにピラミッド型に積まれた空き缶は壮観だったという。
そこにアンドレとディック・マードックがいたら、六本木中の缶ビールが無くなってしまったんじゃないか?
入れるモノを入れれば、そりゃ出るモノも凄い!
現在、全日本プロレスの武藤敬司が若手だった頃のエピソードで、宿舎に居ると呼び出され、
大至急アンドレの部屋に行けと。
なぜかナイフ&フォークを持参しろと釘を刺されたというのだ。当の本人は何のこっちゃ解らずに向かった。
部屋に到着し、アンドレの指差すトイレに入ると、フォーク&ナイフの理由に納得した。
便器の中は超巨大ウンコ。とても水洗の域を超越した代物。
この糞を、サイコロステーキ状にして始末したというのだ!まったくもって迷惑千万な話。
さすがの武藤も涙がこぼれ落ちたらしい。


このくらいのアンドレ伝説は氷山の一角。どこまでが真実かどうかは定かではないけれど、
まさにその部分が実は『プロレス』というものなのだ!!
虚と実が混在しているジャンル。真実であり虚空でもある。
但し、それが世の中が表すところのグレーゾーンではないと断言できる。
あえて色で例えてみるも、それはズバリ!プロレス色なのだ!!
プロレスを日常/常識で計ると、それは決まって八百長と言われる。
しかし、馬場さんの名言でもあるが、『プロレスとはプロレス』なのだ!
まったくこの言葉にはマジで泣けてくる。実に深い。

【大巨人】アンドレ・ザ・ジャイアントは紛れもないプロレスラー。
存在そのものがプロレス。それには嘘がない。
一流のプロレスラーには強烈な光と影がある。アンドレは世界的に成功し、富や名声を手に入れた。
しかし若くして孤独に死んだ(心臓麻痺で)。40代という若さで。
ボクが一番好きな外国人レスラーだった。
そしてその当時、ただ一人『生』で見れなかった一流レスラーである。
だからアンドレは、永遠に『幻想』も巨大のままだ。

すなわち何でも手に入れるな!何でも見ようと、聞こうと、味わおうとするなかれなのだ。
今の世の中はがっつき過ぎている。
『腹八分目で医者要らず』という格言は正しい。
この不触真空パックを、己の幸福論、ひいては恋愛事にも当てはめるべきなのだ。


…ところで、アンドレの腹八分とはいかに!?
掲示板や日誌にも書いたけれど、忌野清志郎が喉頭癌を患っているという。
知らせのメールを見た時、さすがに絶句した。
存在そのものがロックな人が、現実的かつ生死にかかわる病気になったという事実がとてもショックだった。


ボクはずっと音楽の授業が嫌いだった。
ノリの悪い、グルーブのかけらもない教師が弾くピアノに何一つ魅力を感じなかった。
それにダラダラと長いクラッシックのレコード鑑賞など、真夏の教室の中では地獄感を助長する時間だったと思う。
おまけに、それについて感想文を書けと。実にくだらない内容の授業があった。中二の時である。
ボクは、『救いようもない程つまらない。』と一言書いて提出すると、
教師は感想文になっていないと突っ返してきた。ふざけるなだ。
救いようもないものに説明なんかできねぇ!と、見事に思春期的屁理屈で、
以降の授業をボイコットする事になる。

約3ヶ月間、ボクは音楽の時間になると身を潜めていた。
ベランダにいたり、階段に座ったり、寒い時には保健室に籠ったりもしていた。
やがて進級すると、タカシという友達が、「RCサクセション」を聴かせてくれた。
そこに流れたのは、トランジスタラジオという曲。
『woo~授業をサボって、陽の当たる場所にいたんだよ~。
寝転んでたのさ~屋上で~タバコの煙とても青くて~』
凄くリアルに響いた。もう速攻でチャリンコを飛ばして、隣り町のレンタル屋へ!
まだはっきり記憶している。
友達(ユーキャン)と二人で行ったんだ。
もちろんCD付ステレオなんかないわけで、ユーキャン姉のCDラジカセが大活躍。
カセットテープに録音してもらっていた。歌詞は手書きで写す!だから当時の曲は全部歌えると思う。
その時に借りたアルバムは、「ニューベスト・ナウ」というレコード会社のつじつま合わせ的なベスト盤。
ただ入門編としては絶品な選曲。
なかでも、『山のふもとで犬と暮らしている』は、中学生という「枠」の中での感情を、
いい意味でぶち壊してくれた気がする。
それまで、自分自身の照れみたいなものを破壊行為によって紛らしていたように思う。
じっとしている事が恥ずかしい。部屋で静かにするなんて絶対にしない。ボクはうろついていた。
ココロもカラダも。
けれどこの曲を聴いてからは、自分の部屋に清志郎が居てくれているみたいな感じがしたんだ。
なんか話かけてくれているみたいな。
だから中三のボクにとって忌野清志郎は、当時人気のあった尾崎豊みたいな代弁者ではなく、
側にいてくれる「理解者」だったように思う。

いきなりメーターが振り切ってしまったわけで、次はライブだという運びになった。目指すは日本武道館。
一曲目、会場内の青いライトだけが光り、
「ミッドナイト・ブルー」からスタートした。部屋に居る清志郎とはまるで別人。
ボクらの到底手が届かないロックスター。15メートル先に登場した時、我を忘れた感覚が胸に刻まれた日だった。

あの詞の世界。言語チョイスは天才中の天才だと思う。天才は溢れ出す才能に満ちているのだ。
部屋にポツリといるように感じさせる、ミニマムな世界を醸し出すのも才能であるし、
ファンを突き放すような眩しいほど輝いた世界を構築しているのもまた才能なのだ。
この二面/二極性を自在に操れてこそロックンローラー。陰と陽。光と暗闇。
癌を患ったこの重大な出来事を、清志郎はきっと歌にすると信じている。
珠玉の名曲が生まれるだろう。
ボクの音楽の先生は清志郎だ。救いようもない音楽ライフを、
ここまで楽しませてくれたきっかけは清志郎より他はない。
そんな思いを抱いている人は全国津々浦々、たくさんいるはずだ。
だから今度は清志郎本人が救われる番だよ!

ボクは祈る。
ロックンロールの生徒として。
この夏は変な天気が多かったように思う。ずっと雨が降っていたり、
もう夏を通り過ぎたかと思ったら、連日この酷暑である。
暑さでいったら、ある種これからが本番みたいなものだ。9月末まで残暑は続くだろう。
きっとクーラーはフル稼働なんだろな。


クーラーってのはスゴい。よくもこのクソ暑さを冷却させれると思う。
発明した人は偉いな~と毎年のように感心している。
去年パイで行った伊豆大島での話。台風一過で快晴、猛暑を軽く超えた『激暑』であった。
竹橋埠頭はJR浜松町から徒歩15分程度だが、したたる汗を拭ぎながら歩いたのを記憶している。
船が出航して約2時間で大島に着いた。もちろん暑いのだけれど、
その質の違いを感じるのに時間はかからなかった。
気温は33℃以上はある。本番当日は間違いなく35℃オーバーだった
。野外ライブなのでリハはお昼に行う。
気温が最高潮に上がる時間帯だ。しかし、きっちりと水分を摂っていれば気分が悪くなるほどでもなかった。


後々テレビで見たのだが、なるほどそうだったのか!と思う事があり、手を叩いた。
ヒートアイランド現象の救世主となるのが「溶岩」であると。
溶岩は緑を生む。緑そのものが気温を下げるというのだ。
東京・丸の内と、そこから目と鼻の距離にある新橋とで比較した場合、約3~4℃ほど丸の内の方が低い。
なぜかというと、皇居にある緑が丸の内の気温を降下させているからだという。
それほど緑~木々というのは凄い効果をもたらす。
つまりビル群の外壁に溶岩を使用すると!もうすでに実用化に向けて研究が進んでいるらしいのだ。


大島宿泊の夜、外に出て空を見ると満天の星空が広がっていた。
都会では絶対にお目にかかれない夜空である。
そして、そこに吹く風がまた心地良い。自然に口笛を吹いたり、鼻歌を唄いたくなるような風なのだ。
目には見えない風。人間生きているならばいい風を浴びるべきだ。
クーラーも凄いけれど、自然の風にはかなわない。
大島にはそんな事を気付かせてくれたんだと感謝したい気持ちでいっぱいだ。


確かにクールビズって素晴らしい発想だと思う。
けれど、例えばクーラーの事をあげて言うと、設定温度を 28℃ に!
などがあるが、はっきりいって25℃設定くらいでないと暑くてしょうがないのだ!
なるべく節電モードにはしているけれど、帰宅時は急速運転にしないと耐えられない。

クールビズ的見地から見たら、お叱りを受けるかもしれない。
設定温度を上げればその分排熱量が減るという理屈はわかる。ただね、暑いものは暑いのだよ!!


クール計画も様々な項目があるのだろうが、機械や物などの問題に指示を出すと同時に、
緑や風についての話(科学的根拠)を教育の中に盛り込んでみる必要がある。
そしてやはり田舎の質の違う暑さを知るべきだ。知るには現地に行かなければ解らない。
行くには金と時間がいる。金は頑張れば都合はつく(つかない場合もあるがね)。

問題は時間だ。日本人は働きすぎである。長期休暇なんてほとんど無いではないか?
40年以上前からの、高度経済成長期から労働システムはそのままだ。

いや、パソコン全盛のこの時代の方が拘束時間は長いのかもしれない。
日本は世界指折りの経済大国になった。団塊世代はさぞ苦労された人が多いだろう。
けれど、金を産んだかわりに自然を破壊し続けたのだ。その皺寄せがきての異常気象。
もうそろそろ程々にする必要がある。
クーラーの風しか知らないのはまずい。もっと休んでも罰は当たらないと思うのだが…。
なんて事を考えていたら頭がのぼせそうだ。

あ~っ。クーラーのリモコンどこだーっ!!
「波乱に満ちた日々。」聞こえはいいが、たまったもんじゃねぇ。だから、
当たり障りのない日常は決して『悪』ではない。
寄せては返すような毎日。生活とはそういうものなのだろう。事故に遭い、
二度の入院&手術を経験してボクは平穏に暮らしている。
そんな静かな日々がとても尊いものだと感じる。なので、
週末や休日のライブの祭り感は自分的にアップしているようだ。
雑多で猥雑なものが、よりいっそう強く見てとれる。これはいいぞ!
感覚の振り子は揺れている方が楽しいに決まっている。


しかしこれは、あくまでイチ個人の理想的な暮らしの問題であり、
表現者(バンドマン)としての部分では、いささか刺激が足りな過ぎるのだ。
その証拠に退院以来まったく詞が書けていない。
その内に言葉が出てくるだろう、などと気楽に構えていたのが甘かった。
ここ数年こんな状況はない。盆明けあたりに、はたと気付いたのだ。
平穏な生活に自分は『埋没』していたんだということに。
そしてすぐ、これはもう『一人旅』に行かなければならないと思ったのだ。
九月に入った土曜日の朝、カーテンを開くと快晴。
窓を開けたら風も吹いている。うん、今日しかない。ナイロンバックを取り出して支度。
必要最小限だから2分でOK。
出発した。駅に向かう途中でコンビニに立ち寄り、ノートとペンを購入した。曲(詞)を書く為だ。
駅へ到着。行き先は切符売り場にある運賃表の路線地図を見て決めようと。
いや~まいったな~。これが全然決めれず立ち往生。
「宇都宮に餃子、銚子へ秋刀魚、小田原で蒲鉾、…ん~?」あやうく食べ物につられるとこだった。
ちなみに予算二万五千円。
あまり遠出はできないのである。そうこう迷ってるうちに、路線地図には乗っていない名所が頭に浮かんだ。
『日光』に決定。


北千住へ行き、特急スペーシアでおよそ2時間。土曜日なのに車内はガラ空き。
車窓から見える景色はしだいに緑が多くなる。
昼過ぎに下今市到着で乗換え。しかもこの時点で二つの詞のアウトラインができあがっていたのだ!
もう完成したも同然。
幸先が良過ぎるではないか。ここから約10分で着く。
日光駅に減速した電車が近づくと、赤とんぼが並走していた。
「ここはもう秋なんだよ。」そうボクに語りかけてきたみたいだった。
この旅の、「道先案内 は赤とんぼ。いい感じだな~。
意気揚々と改札を出る。駅構内に宿泊案内所があり、状況を確認してみた。
やはりそこは土曜日なのだ。
「六千円/素泊まり/ボロか、一万三千円/飯付/旅館」のいずれかだと。
予算の都合がある。ボロホテルを下見してみた。
忽然と現われた建物は宿泊施設には見えない物体だった。あれはアトラクションだ。
しかも人の居る気配がまったくしない。
スルー、スルー。駅まで戻る。日光といえば東照宮(世界遺産)だ。バス停に並ぶ。
しかしなぁ、観光地の運賃は何故ここまで高いのだろう。


午後2時東照宮に到着した。徳川家康はとんでもないものをブッ建てたものだ。
あの夥しい量の彫刻の数々。圧巻である。
いかに風水を基準に物事を動かしていたのかがよく解る。その中で不思議な場所があった。
本堂から離れた所にある通路だ。
順路に当てはまらないので誰もいない。そのエリアだけ「寒い」のだ。
ボクだけかもしれないので、誰か来るのを待っていた。
『うゎ!何だ此所は!』肩を窄める旅行者たち。やっぱりそうだったのか。
気になって管理掃除のおばちゃんに聞いてみた。
『ここはどんなに猛暑でも冷たい風が吹くんだよ。』この日の気温は30℃。
きっと霊的な通り道に違いない。
家康さんは歴史に名を轟かす偉人であるが、こんなものを作らせてしまった事に関しては、
『狂っている』としか言い様がない。
漠然としているが、この一言に尽きる。無事に東照宮巡りは終了したのだった。
秋は日が短い。あっという間に夕焼けになった。


問題は寝床だ。バスでまた駅まで戻るのもなんだし、歩いて宿捜しをする事にした。
川沿いの宿という宿にアタック。
虫も逃げ出すようなボロ旅館も、オール全部『満室』だ。いや、絶対に空いている。
一人だから断っているに違いない。
さすがに足も棒になっちまった。バス停を目指し再び日光駅へ。いよいよヤバい状況だ。
ここまで来て、日帰りはないよな!


どうなる一人旅!

…つづく。
無計画に飛び出すのが旅の醍醐味。だが、宿探しに苦労してしまう。1時間ほど練り歩いたが決まらなかった。
とりあえずは日光駅へと引き返す事にした。駅構内にある旅館案内所へ再度行った。さっきの担当者がまだ勤務中。
ボクを見るなりニヤッと笑った。『ね?どこも満室だったでしょ?』これぞ、したり顔!という表情をしていたのだ。
『いいですか、\13000で一泊二食で立派な旅館か、\6000でボロ&素泊まりしかないんですよ!どうなさいます??』
予算オーバーだが、ここは前者に飛び乗った方がよいと判断。
昼にチェックしたホテルだけは、どうしても御免被りたいのだ。
担当者はさっと受話器を取り、『一名様・男性です。』と告げた。約10分すると、11人乗りマイクロバスが到着した。
ボク一人の為に迎えに来たのだ。
道中、運転手さんと世間話をした。観光地ほど地元住民を大切にしないと、その街はあっという間に潰れてしまう。
みたいな事を喋った。


ホテルに到着。すごく綺麗で巨大な建物。期待に胸も膨らんだ。
夕食は個室で懐石料理、風呂は鬼怒川を一望できる露天風呂だというではないか!
しかし、ボクは大浴場に対して密かなトラウマがある。
23、4歳の頃、未払いでガスを止められてしまい、近所の銭湯へ何日か通っていた。
ある日、洗い場で髪の毛を洗っていると、超でかい鼻歌を口ずさむ老人男性が入ってきた。
100%酔っ払い。湯船の前に立つジジィ。
「ジョロジョロジョロジョロ~」シャンプーの泡越しに見えた光景は、ジジィが立ち小便する姿だったのだ!
それ以降、排泄物が混入している可能性が極めて高い大浴場へ入る事はなくなった。
だから露天なんぞあってもシレッとしたもんだ。
一応入るには入ったわけだが、露天特有である岩肌の「ぬめり感」は気持ちが悪い。
シャワー中心でも、旅の疲れを癒してくれた気がする。


さて飯。個室とやらへ移動し、懐石料理をいただく。
食前酒(かぼす味)を飲み、一口サイズの付きだしをほおばる。
次の料理までの間隔が異常に長い。こっちは一人。話し相手がいないのだから食うのみ。
全部いっぺんに持ってきてもらう事にした。
仲居さんは巨大なお盆に料理を運んできた。さすがに壮観だった。
テーブルは賑やかになったが、肝心の味はイマイチ。
要は何の変哲もないおかずを、懐石っぽく小盛りにしてみただけだのもの。
言いぶってるわりにどうって事はなかった。


部屋に戻る。言い忘れたが、ここはタコ部屋という事以外に言葉がない。
シングルベッドと机&ソファー、ユニットバスがひしめき合っている。
外観は素晴らしいのに中身は酷い(極狭)。矯正下着みたいなペテンぶりだ。
ただ文句を言ってはならん。野宿よりは格段にいいのだから。
夜、近くの酒屋に行って地元産の日本酒を購入。これをチビリと舐めながら、昼間に書いた詞を完成させた。
いい感じである。
日本酒は封印させていたのだが特例とする。旅先ならではの酒を呑んでも罰は当たらないだろう。
気分良く就寝できた。


午前8時に目を覚ます。タコ部屋から眺める木漏れ日はよろしい。日光でけっこうだ。
午前10時にバスに乗って中善寺湖~華厳の滝へ。
全長99メートルの滝は凄まじい迫力だった。とかく心霊スポットと扱われているが、
名前や場所からして当然であると思う。
しかしオカルト的に捉えてはいけない。蛇口からチョボチョボと流れているものとは訳が違うのだ。
この世のものとは思えないパワーこそ、自然が生んでいる。
「日常に埋没」していた輩には強烈すぎるほど響いたのだった。
この場で宣言しよう。ボクは『滝』を求め、また一人旅に出向く事を!
(どなたか滝マニアの方がいたらレクチャーして欲しい)。


午後3時、日光をおさらばした。特急で帰るのは辞めにした。
たった2時間で都会に戻ったら、自我がイレギュラーを起こしかねないからだ。
急行でゆっくりと戻るに限る。余韻に浸っている時に限って邪魔が入るのが常。
後ろの席で女4人(ブサイク)のUNO大会。
我慢したけれど、限界ゾーンに突入。“殺し”のドローフォーを突き付けてヤろうと思ったが、
『ミザル、イワザル、キカザル』なのだ!
ウォークマンを装着して騒音をシャットアウト。
停車中の車窓に目を向けると、そこは【東武動物公園駅】のホームだった。
プッと噴き出したら、目の前を赤とんぼがまた飛んでいた。そんなボクを見て赤とんぼも笑っている気がした。
端くれ。
というか、雫の「水滴」程度しか活動していないけれど、ドラマーとして年に数回ライブをしている。
高二の時から始めておよそ17年間に及ぶ。
空前のバンドブームだったので、右も左も何かしら楽器を触っている奴ばかり。
実はその前からボクは、「ドラム」そのものに興味があった。
言い換えると、音楽やミュージシャンには無関心。
とにかくドラム“だけ”に関心があり、その感情は序々に高まる一方に。


生ドラムを叩く1年くらい前から、古雑誌を重ねたものをスネアに見立て、見様見真似でコツコツ叩いていた。
当然スティックなどはない。近所のホームセンターの材木コーナーで極細丸太を購入。
それをノコギリで切って使用した。
もはやスティックというより、「バチ」と言った方がふさわしい代物。
それから音楽に合わせ、やみくもに古雑誌を叩く毎日を繰り返していた。


後に、この無意識の行為が実に功を奏した。高校二年の夏の日、平塚の友人宅に遊びに行った。
その家にドラムセットが!
ちょいと叩かせてもらう事に。人生初体験だ。あの生楽器の音像に思わず感動!
CDに合わせ、ブルハの『Train―Train』を叩いた。
例の古雑誌トレのおかげで、この曲をいきなりやって合わせられたのだ。
友達は目を丸くしていたが、一番自分自身が驚いた。
ちょうどこの頃、学園祭シーズンに突入。これは黙っているわけにはいかないと!
けど、やるからには間抜けなコピーバンドなんかやるものかと思っていた。
その年の主流は、ジュンスカ、ラフィン、ボウイ、ジギー、etc。
軽音部のチャラ男連中までコピーバンドだったのだ。笑わせるなってんだ。


なので、「オリジナル曲」でバンドをやっている奴を探した。
ある日、ドラムをやっている友達から情報が入った。<<<いたのだ!
そのバンドはドラマーを探しているのかと問うと、すでに在籍しているという。
誰なんだ?と聞いたら、何て事はない、正にそいつだったのだ。
気の毒だったが、半ば強引にその席を譲ってもらう。
すぐバンドの連中と顔合わせし、音合わせをした。その後たくさんのリハを重ねて本番へ。
学祭の体育館ライブで初ライブをしたのだ。
それからどれほどライブをしたのだろうか?二十歳からの数年間は、我ながら傍若無人な日程だった。


バンド遍歴は数あるけれど、ドラマーとしての理想像に関しては、良くも悪くも始めた時代から変わっていない。
好みも同じ。
まずテクニック重視&音数多、巨大セットで埋もれていて、なおかつ無機質と‥。
これには1ミリも魅力を感じないのだ。
あいつが、そいつが、「ここに居る」っていう存在価値があるかが基準だ。
つまり【生粋のバンドマン】かどうか?
自分自身も、このこだわりはもっとも強く抱いている事かもしれない。
CDのコレクションを眺めても、ソロ系の作品は極端に少ない。
音楽そのものから入ったというより、バンドが持つ質感みたいなものを味わいたかったのだろうと、今になって思う。
みんなバラバラだけど、ある一つの目的地に向かって行くような疾走感は、何にも変えられないと思っている。
それはドラムも唄も同じ。


しかし、プレッシャー(緊張)の種類はまるで違う。ドラマーの場合だと、ビートが止まったら終わる。
ライブが死んでしまうのだ。
唄の時はもっと周り(客)の状況や環境なんかが緊張の度合いの高低を決めたりするのだが…。
なのでドラムを叩いている最中は、どこか冷静で冷めている自分がいる。
実際にそのくらいクールな方が音もきれいに出るものだ。
いわゆる『デカい音』と『うるさい音』は似て非なるもの。力んでいると音は詰まってしまう。
それをさらに力づくでやると、耳障りな音になる。
しかしその逆に、イメージしたサウンドに対し、忠実に身を委ねてみると、不思議と想像に近い音になる。
出したいを出す事が可能になっているだろう。
チューニングの技術や基礎なんかは、この「理想音イメージ」のずっとずっと後でいいのだ。
プラモデルのように取説通りに完成するものではない。
オリジナルティーって偶発性の賜物だと思う。頭の中で何万もの音を鳴らすのだ。
それを具現化する事に意味があり、個性へと昇華すると信じている。


断わっておくが、ボクより上手い奴はゴロゴロといる。たぶん下手の部類に入るんじゃないかな。
良くて独特系(?)あたりか。
けれど、俺はもうテクニックはいらない。付き過ぎたと思っているほどである。
今後はさらにオカズ(手数)は最小限に抑えるつもりだ。
大見栄切って話すついでに言うが、プロドラマーほど杓子定規が多過ぎてつまらない。
インディー連中のが、よっぽど人間味があるように思う。
論外も多数ごろついているが、ドラムそのものの「位置」からしても当てはまる事で、
陰なり日向にならねばならないパート。
後ろにいても、『俺はここだ!』って主張する時もあれば、存在そのものを消す事も必要である。


曲によって「脈拍」はアップダウンする。演出では抑えられないポイントが、いいバンドほどたくさんある。
そいつに逆らうなと!
鼓動は自分で止める事はできないでしょ?上がれば上がってよし。その逆もありきなのだ。
音楽自体が破壊されなければ、ココロのビートに従ってもよい。
ドラムは「持ち場」から離れられないけれど、その分とても自由な楽器である。
もしドラマーがこれを読んでくれたなら、心からエールを送りたい。

そして、ドラムに縁の薄い皆さんには、ちょっとだけ意識して聴いて欲しいと思う。
いいバンドの【要】は、紛れもなく、「ドラム」で決まるのだから。


※コラムの御意見・メッセージなどは、携帯版HPのパイのパイBOXへどうぞ!
前回に引き続き、ドラムの事を話してみたい。今回は大好きなドラマーにスポットを当ててみよう。

■まずは日本人ドラマーから。
いきなり総評になってしまうが、日本人スタジオミュージシャンにポップス系をやらせたら世界屈指。
やはり器用な国民性なのだろう。ガサツさがないもの。ただ良くも悪くも『無機質』なように思うのだ。
ボクの好みはその真逆。人間的であり、かつ泥臭いながらも芳香さのあるドラマーにしか興味がない。
何名か紹介させていただく。


【岡地曙裕/ボ・ガンボス】
疾走感やタイトさでは比類無き存在。あまりに国内で過小評価されている名人。
今は亡きVo.どんとが、岡地っちゃんを紹介する時にこう言う。『ロックンロールドラマーの最高峰っ!』とね。
まさにその通り。独特のタイム感は真似できない。語弊があるかもしれないが、『職業』的な匂いがまるでしないのだ。
純度100%のバンドマンという雰囲気を強烈に放つ。独特なグルーブに腰を揺らし、踊らせられてしまう。
やられた!と、毎度思いにふけるわけだ。余談だが、都内プロレス会場でよく見掛けるってのも親近感が沸く(笑)。

【春日“ハチ”博文/ギターリスト】
元・カルメンマキのギターである。RCサクセションと親交が深く、
特にチャボのソロ作品すべての楽器で(!)参加している。
つまりマルチプレイヤーなのだ。90年にはドラマーとしてRCへ。肩の力が抜けた『脱力系』グルーブ。
高三の時、野音の盗み録りした音源で毎日練習した事を思い出す。
音楽は力のみではないとハチのドラムで思い知った。

【乙部ヒロ/ドラマー(フリー)】
かつて乙さんがプロになる前に共演した事がある。このエピソードは、前に記した日誌をご覧あれ。
氏を一言で表すと「響」だろう。ボンゾに影響を受けたのは一聴瞭然。
しかし、それにファンクグルーブを加えた驚きがある。
普段は柔和な人柄なのに、時としてステージ上で怪物に化けるのだ。その豹変ぶりに心酔した。

【佐野康夫/AIR】
今までライブハウスで共演し、あまりの凄さに『ひっくり返った』ドラマーは、上記の乙部さん。
そして、ここで紹介する佐野さんのみ。終演後、密かにステージにあるセットをくまなくチェックしに行った。
なんか特別に細工してるに違いないと思わせるくらい、音のヌケがよかったからだ。当然ギミックなし!
当時(93年)の佐野さんはスキンヘッドで、カミソリのようなビートを奏でていた。
リズムは刻むものでなく、切っていくものだと教えてくれたと思っている。

■続いては外国人ドラマーをピックアップしてみたい。やはり食い物の差みたいなものを感じるドラマーは数多い。
血の違いというかね。シンプルなビートほど、外国人ならではのノリが聴いてとれるのだ。

【チャーリー・ワッツ/ザ・ローリング・ストーンズ】
人物(ドラマー)の前に、まずは「ドラム」という楽器そのものから興味が沸いたのだが、
チャーリーこそ一番最初に好きになった憧れのドラマーである。
高校二年の停学中の事だから、そうとう古いファンになった。
ストーンズ結成25周年記念のコメントで、『最初の5年間働いて、
後の20年間は居ただけだ。』と平然言ってのけている。
しかし、来日の度に異常なテンションのドラミングなのだ。
下手なのに何故あんなカッコイイのか、今だに解らない!

【アル・ジャクソンJr./MG’S】
あのオーティス・レディングのバックをつとめており、ソウルドラマーの頂点に君臨していた…と思っている。
黒人にありがちな、『見たか!オラッ!』みたいな傲慢さは無く、淡々とクールに叩く様は鳥肌ものである。
ボクが人よりスローン(椅子)が高いのは、アルの真似をしてからである。
もはや低い設定だと叩く事すらできなくなった。
この人が存命していたら、「ソウル」というジャンルもこんなに衰退していなかったはず。暖かいリズム世界一!

【スティーブ・ジョーダン/ドラマー(フリー)】
つい最近の活動で、クラプトンのバックで叩くという情報を聞き、公演10日前に慌ててチケットを確保した。
ギターの神様には悪いけれど、85%はジョーダンを凝視していたのだ。『クラプトンどけっ』みたいな(笑)。
先に触れたアル・ジャクソンJrの系統を引き継いでいる最後のドラマーといっても過言ではない。
オカズ(手数)は少ないのだけれど、曲によって音色(スネア)を変える繊細な精神には脱帽する。
例えばポール・ウェラー/ライブ盤(2枚組)を引き合いに出すけれど、各楽曲は最高にクールでカッコイイ!
しかし某ドラマーのドラム音色が“同一”だったのだ。23曲もね。
これだと非常に『のっぺり』とした印象になってしまう。
その点、ジョーダンは平面的な観点/感覚は無い。とても立体的である。
人肌感覚でライブを構築している絶妙さがたまらないのだ。
この音楽ありきの姿勢はドラマーとしてでなく、バンドマンとして大切な精神であろう。
まず、ビートありきって事なんだ。

※まだまだ紹介したいドラマーはたくさんいるが、世間で爆発的に評価を受けている偉人達はあえて割愛した。
最後に、The Rolling Stones/KEITH(G)が、世のドラマーへ向けたメッセージを記しておく。


『いいアート〈絵〉には、必ず「余白」があるんだ。ベチャベチャ絵具を塗りたくってねぇ。
リズムとて同じだ。俺は幸い怠け者のドラマーに縁があってよ、この辺に恵まれてんだ(笑)。
けどよ、この「余白」こそ“ロックンロール”なんだぜ。とにかくビートをよこせってこったよ!』
「*この映評は内容に触れています。ご注意ください」



「イラつき。」

映画『ディパーテッド』は、登場人物のすべてがイラついていた。ざっとストーリーを紹介しよう。

若いマフィア(マット・デイモン)が警察官になり、情報をボス(ジャック・ニコルソン)にリークする。
逆に新米刑事(ディカプリオ)がマフィアへ潜入捜査をし、互いの正体を隠しながらの化し合い。
緊迫感最高!ただ結末は、一般的な方向での解決に至っていない。カタをつけたと言った方が当てはまる。


「全部死んだ。」

もう主要人物は全員死んだのだ。そこに後味の悪さが無いといえば嘘になる。重い気分になった。
しかし、すべての映画がハッピーエンドに終わるものではない。曲者/スコセッシ監督だから当然といえよう。
一筋縄では終わらない事は想像できていた。
冒頭で述べた「イラつき」を最も強く発していたのは、主人公でも脇役でもない。
まさにこの監督自身が火山のようにマグマを噴出していたように思う。

人物すべてが、日常に転がっている狂った『轍』のように置き換えられるし、
また、一人一人が『国家』にも見てとれる。
大小の違いこそあれ、我々は日々の“化け騙し”オンパレードに、毎日イラッとしているはずなのだ。
それを警察とマフィア、つまりは世の正義と悪に振り分けただけの設定である。
そういう意味では非常に解りやすい。


「仮面。」

もしそれが自分の意としない仮面ならば、誰もがストレスを通り越し、イラつきが増幅するもの。
成れの果て、それがやがて人を狂気へと誘う事になる。非常に歪に変形してしまうだろう。
…と言って、偽仮面を脱ぎ捨て素顔に逆戻りするのも、並大抵の業ではない。
素顔とは平穏な日常を指しているからだ。
生き急ぐと後戻りはできない。毒にも薬にもの世界である。世の中は両極で成り立っているのだから。
どちらにも善と悪はあるし、罪だってあるのかもしれない。この場(映画&世間)での両極を説明してみよう。

一つは、突き抜けたい願望/執念を持ち続け、それに向かって猛烈に爆進するタイプ。
もう片方はその逆で、生まれながら常識/一般的な情報に育てられ、素顔のままで生きていられるタイプ。
劇中の登場人物はすべてが前者である。だから全員がそれぞれの仮面を付けたり被せられたりしているのだ。
彼らは素顔をさらした途端に死んでいる。平穏イコール死なのだ。各人の終末はあっけなく訪れていた。
終始誰もが死に直面している状況で、イラついているのは当然だ。へらへら笑っている奴なんかいるはずもない。


スコセッシ監督はその極端な世界を、見事な疾走感でみせている。150分間の死に向かうドライブ。
ハンドルを握るのは、何を隠そうこの監督自身。こんな構図で成り立っている映画は、昨今とても珍しいのだ。
ふと思い出した映画がある。コッポラ監督作品、『地獄の黙示録(1978年)』だ。これも同じ。
ある囚われの身になった上官を救い出す兵士が、最後に狂っていた上官を殺害し、村(部族)ごと殲滅する結末。
戦争という愚行が、人々を狂わせていく事にコッポラは目を逸らさなかった。そして暴発してしまった。
だから撮影&製作期間内の数年間、コッポラはまるで狂人と化していた。メイキングを観るとよくわかる。
面白い偶然で、この黙示録の主演、マーティン・シーンは「ディパーテッド」にも出演している。
黙示録~約28年経つのだから、見る影もないが、実にコクのある演技をみせてくれている。うまい役者だ。


そして、やはり監督が一番キャスティングしたかったであろう、怪物ジャック・ニコルソンも迫真の演技だった。
あの顔、眼光、しゃがれた声、すべてが尋常ではない。彼の演じたカルロスだけが、自分の死を悟っていた。
あの暴走ぶりは、まさに監督そのものである。ひょっとしたら、スコセッシもそう長くは無いかもしれない。
きっと次作も『死』に向かっていくテーマの映画を撮るはずだ。ディパーテッドを観たら後に続けである。


悪いけど、凹凸差のない平穏な日常を送っている人々に、この映画の評価/評論はしづらいと思う。
ネットでの数々の評は、ガキの読書感想文以下だった。それに加えて、評論家たちのそれも陳腐で呆れたものである。
全世界は終焉直前。北極~南極ですら狂いが生じている中で、
評論家だけが“まとも”でいられるわけがないじゃないか!
ディパーテッドとは、死者という意味である。どう生きたって、誰もが死者になってしまう末路なのだ。
そんなシンプルな恐怖に打ちのめされ、なぜか死に急ぐ「矛盾」を叩きつけた男たちの映画である。
DVDを買って何回も見返す娯楽作品ではない事は、この映評を読んだらわかってもらえたであろう。

どうだろか?こんな評価をしているのは、世の中でボクだけかもしれない。
けれど、ここはこの映評を信じて、是非とも観て欲しい!


そうなんだ!評論とは『俺の言う事を信じろ!!』と叫ぶ行為だ。テンションの塊なのだーっ!!!
「え!全身麻酔じゃないんですか!?」

昨年末に、今回の手術プランをドクターから聞かされた。一年間留置した、骨をつなぐ金属プレートを除去するのだ。
プレート4枚、頬骨に埋めたボルト2個を、口内3ヶ所を切開して取り出す。
麻酔に関してドクターの詳しい説明が続いた。
「今回は局部麻酔です。何ヶ所かに注射します。それから、点滴を術中続けます。
これは、手術の興味を減らす薬が入っていて、安定剤と考えてもらえばよいです。」
いったい俺は何をされるんだ!と、内心不安になったが、なぜかその場で大笑いしてしまった。“興味を減らす”ってな。

それから約二ヶ月。いよいよ手術当日をむかえたのだ。

(午前9時30分)
オペ室へ移動した。先生方と、とりとめのない会話(格闘技)があって、例の点滴。
口内へ注射をした。本日の手術患者は口腔外科だけで、ナント9名!すべて同時に何かが進行している。
実にスピーディーに事が運んでいた。

顔にシートみたいな布をかぶせられた。次第に体がフワ~ッとなり、頭の中は水風船のようにやわらかくなった感じがした。
ぼんやり何かしゃべっているし、ドクターの話も聞こえているのだが・・・。
今になってその内容を思い出そうとしても、一語一句何一つ記憶がないのだ!こんな感覚は生まれて初めてである。

後日、ドクターに質問したら、
「そんなものですよ。脳内のある部分にだけ効く麻酔なんです。」
自分に限って、意識がありながら、あるポイントのみ抜けてしまうなんて絶対にないと思っていたのだが・・・。
世の中にはすごいものがまだまだありそうだ。

(記憶)
しかし、たった一つだけハッキリとした感覚を憶えている。
手術の中盤か終了間際あたりだと思うが、誰かがボクの足の甲をさすってくれた事を。
現場には男性3名に、女性2名いたが、あれは間違いなく「女の人」だ。
野郎はあんなにやさしく触れられるはずはない!看護士のどちらかであろう。
2人に確認したい。・・・いや待て。この2人のどちらかが撫でてくれたんだと思い続けた方が幻想的で平和である気がする。
万が一にも、どちらでもない事が判明してしまったら・・・。自分にバカ負けにするのはゴメンなのだ。

(午後1時)
病室へ戻ると、そのまま果てしなく眠り続ける。途中起こされて、坐薬をぶち込まれた。もうこいつにも慣れたものである。
入れたきゃ入れろだ。

(午後9時)
ボーッとしてるも夕食。前にも書いたが、恐怖の「きざみ食」なのだ。すべての食材がみじん切りに細かくなっている。
だからそのまんま、きざみ食。見るとテンションがストンと下がるよ、コレ。
それでも、24時間以上も断食状態だから楽勝の完食。夜になるにつれ痛みが強くなってきた。
だけれど、寝てしまえばどうにかなるレベル。どうしようかな~?ここで、ある薬品名がフラッシュバックしたのだ。

(院内サイケ)
「ペンタジン」前回の手術後に打ってもらった劇薬である。モルヒネに近いものだそうだ。
こやつを入院の思い出に一発お願いしようと。ナースコールを押した。「ペンタジン打って下さい。」
単刀直入にお願いしたのだ。
返答はもちろん、ドクターに確認しますである。数分後、注射一式を手にしたナースが来た。どうやら許可がおりたようだ。
左肩からペンタジン投入!!ウォークマンをピンクフロイドへチェンジ。灯を消した。
ものの何分で、強い痛みは嘘のように消失していった。
さすがペンタジンだよ。さぁお前!これからが本番だな。ちょっとした幻覚のひとつも見せてもらおうじゃないか。
数十分経過、ピンクフロイド終了~。見事な肩すかしである。
普通にプログレが耳から聴こえただけだった。期待していた自分がアホらしくなった。
だから・・・バカ負けはゴメンなんだって。

(午前7時)
起床してすぐ鏡を見てビックリ。よくもまぁこんなに腫れるものかというほど、顔の下半分が膨れている。
例えるならば、口の中に「今川焼き」を2つ無理矢理押し込んだ感じか。
はっきり言って自分を自分とは思いたくない、バッドモーニングであった。

(午後6時)
テレビをつけた。ニュース番組をチェックした。国会にいる政治家は、大バカ野郎の最下等動物以下である。
「女は子を産む機械」なんて発言しちまった以上、即刻辞職すべきだ。
それに野党のザコ共も、おっさん一人を集中放火してどうするってんだ。
とにかく連中は、選挙で勝つ為だけに存在していると言って過言ではない。
日本を良くしようなんて思っている奴はほとんど居いのだ。
バンドに例えるならば、そこに音楽はなく、リスナーやオーディエンスも不在であるという事。
あるのは「方便」だけ。下品で、嘘つきで、金に汚い。音楽ならば場合によっては、言葉は必要ないのかもしれない。
しかし、政治というのは「言葉仕事」なのである。
自身の内面から溢れ出した言葉で話す行為は、誰にでもできるものではない。
これには才能が必要。しゃべれない人間は、断じて政治の世界へ足を踏み入れてはいけない。肝に銘ずるべきだ。
日本だけではない。ブッシュだって自分の言葉では何も話せていないのだ。

(午前8時30分)
ボンクラな政治家に比べ、主治医の澤先生には頭が下がる。
インフォームドコンセント(つまり、説明対話)は完璧である。
「この部分は責任を持って治しますが、あの部分はもう治りません。」はっきりとモノを言われる。
短時間ながら無駄な単語が無いので、非常にわかりやすい。
それと、いつ寝ておられるのだろうかと思うほど働いていらっしゃる。
毎朝8時~8時半には各病室で回診。夕方と夜にも来られる。
ペンタジンを打った日などは、深夜0時半にわざわざ「大丈夫ですか?」と診に来ていただいた。
本当に感謝である。ピンクフロイドなんぞ聴いていた自分が恥ずかしい。

(発進)
病院のこんな献身的な姿勢に、患者である自分のココロはバーンと動いてしまった。もう発進しているのだ。
実をいうと、今回の入院は治療は当然の事、もうひとつ「吸収」を目的に設定していた。
なるべく静かな環境にしたいと思い、個室を予約しておいた。
1日¥5250×入院日数分なので、数万円の実費扱いになるけれど、元は充分とれると思っていての事である。
本や新聞をたくさん読み、持参したポータブルプレイヤーでDVD(映画&音楽)やCDをたくさん流して、
いろんなものを吸収したかったのだ。
ところが、先生方のおかげで、「創作」の方面にギアチェンジさせてもらった。

手術の翌日には、ベッドに横たわりながらバンドの新曲を2曲書いた。新しい目線で詞を書けたと思う。
それとこうして、日誌的(?)コラムもつけている。

(発進②)
人は人によって変化していくのが一番のような気がする。「言葉」「行動」を放つ人。
それをしっかり受ける人。時と場合でそれが逆になる。シンプルな関係がわかりやすくていい。
回復に向かっているのもあるだろうけれど、ボクは今、体の中に心地良い風が吹いて来た感じがしている。
入院して6日目。個室に入ったおかげで、ほとんど「ハイ」「イイエ」だけの会話しかしていない。
閉ざしているからこそ、「平穏」「コミュニケーション」そして「猥雑」の大切さが再確認できた気がするのだ。
1人になることはとても大事。さて、その1人ぼっちの振り子は動き出す。
大いに笑い、唄い、呑むぞー!!
(注〓この文は虹の会機関誌に寄せたものと同内容+αです。)


少年期・プロレスが好きになった。

青年期・プロレスラーになりたかった。

けれど、ボクはプロレスラーになれなかった。

悶々としていた高校時代。爆発寸前、暴発しそうな自分を救ったのは『音楽』である。
バンドマンとして動き始めて約17年、まさかプロレスと絡むイベントに関われるとは!
そして総勢20名を超えるユニット、「スーパーちんどん」との共演も、実に興味深いものだった。

我々、パイのパイコンバートの軸になっているコンセプトは、『バカと祭り』である。結成前から不変なのだ。
メンバーは全員、他に仕事を持つ。住んでいる土地もバラバラ。静岡、千葉、埼玉、東京、ここから集結している。
日常が線ならば、ライブが点となっている。この『点』を、パイなりの祭りに昇華させたいと活動しているのだ。

正気ではできない。観衆をバカにさせるには、最低でも我々自身がリミットを外す必要がある。
パイというバンドはそんな道を選び、その土壌を耕してきたと自負している。
「虹魂3」の共演者&賛同者も、きっとバカについて思案したはずだ。思い思いのバカが刻まれていると信じたい。

大日本プロレスは主流ではない。所属選手の体格も小さく、プロレス的範疇ならば、老舗メジャー団体に軍配が上がる。
そこで、大日本のアイデンティティーを世に示したのが、あの「デスマッチ」だ。
凶器~有刺鉄線に止どまらず、蛍光灯に身体ごと突進していく様は、死に急いでいるとしか思えない。
あれはメジャーの選手とてできないだろう。する必要がない!と言われれば確かにそうだ。異論はない。
しかし、あれが大日本の生きる道だったのだ。プロレスとは、受ける事で成立する稀なジャンルである。
世で暮らすに、攻めより受けの方が断然多いと思わない?受けるには気力と体力が必要となる。
時として知性や理性がないと、自分というものが崩れてしまうだろう。ボクがプロレスから教わったのは、この部分だ。

勝敗のデータみたいなものには興味がない。記録優先みたいなスポーツにも美学があるのだろうが…。
あえて言うけれど、シリアス〓正義みたいな図式は気に入らない。すなわち、バカ〓不真面目では絶対にないのだ。
「スーパーちんどん」は障害を持つ人がメンバーの多数を占める。あなた達は、生活の何割かを音楽で占めているはずだ。
障害があるから日常的に不自由を感じているだろう。けれど大丈夫。健常者もきっちり不自由を感じている。
種類の違いはあるだろう。しかしその種類に悩まされてはならない。人間は何十億の個であるのだから。

産まれた瞬間から自由な人はいない。赤ん坊はみんな泣いているじゃないか。不自由からスタートなのだ!
自由な意識や感覚は、不自由から生まれた産物である。自由だったら自由を感じないのではないだろうか?
大日本のプロレスは、その辺りを凌駕している。コンプレックスを肥しにした人は強い。
音楽に携わる身。
昭和流行歌に感銘を受けたバンド。
パイのパイコンバートと、スーパーちんどんは、ある種『同士』だと思いたい。
私たちそれぞれの「祭り道」の途中で、いつかまた会おうよ。その日までバカに磨きをかけてようぜ!

追伸/虹魂3へ導いて下さった、風見辻造氏と、虹の会関係者にお礼を述べます。
ありがとうございました。


パイのパイコンバート/オギノヘーマ


※追記
「テキ屋殺すにゃ刃物はいらぬ。雨が三日も降ればよい。」
車寅次郎の名文句だ。野外の雨は最大の敵である。この日は快晴だったが、強風が容赦なく吹いていた。
設営の段取りに大きな影響を及ぼした。しかし何とかなるものだ。客入れしてのリハもなかなか乙なものだった(笑)。
終了後、全体打ち上げを断って、メンバーのみで酒を飲んだ。フォク奴は代行車を頼んでビールを浴びていた。
俺もホッピーをたらふく呑んだ。ふと思う。「意味」を掲げるイベントだろうが、プロレスと絡むライブだろうが、
パイのステージに変わりはなかったと思っている。「特別な意味」なんか提示していない。これは自信だ。
いろんな場所、環境、人前でやってきたプレッシャーが、僕らの思いを昇華させてくれたんだと思いたい。


結成4年を迎え、改めて関わってくれた人達にお礼を申したい!ありがとうございました。

魂のドサ廻りは続くのだ!どうもね。
巡らないでどうする。

 人には一つ二つ行かなければならない場所がある。ない!という人も、思いを巡らす出来事はきっとあるはずだ。
ボクにとってそれは、下田市吉佐美にある大浜海岸である。1991年8月末日、ボクはここで大衝撃を受けていた。
その日の朝、二日酔いで起きれないでいた。下田行きは断念しようと電話した瞬間、友達が実家の呼鈴を鳴らしたのだ。
「海パンだけ持って!」約20秒で支度して車へ乗り込んだ。一路下田へ。海水浴に行くのではない。
目的は唯一つ、『ボ・ガンボス/ホットホットガンボ91´~フリーライブ』。つまりライブを見にでかけたのだ。

無料だし、天気いいし、前日までの台風が嘘の様な行楽日和。しかし車内は酒臭い。運転する友達も酒は抜けてないはずだ。
ボ・ガンボスにさして興味はなかったが、出発したからには最後の真夏に「おさらば」する感じで、気軽な遠出となった。
海岸に到着すると、ボ・ガンボスはリハをしていた。Vo.どんとは笑っている。もう普段着がステージ衣装なのだ。
昼下がりの暑い時間。いよいよライブスタート。台風一過の空は青青青!そこへ音は吸い込まれていく。
かなりの数のライブを見てきたが、今だに3本の指に入るものだった。凄い!最高!

真夏とおさらばだ?
やられてしまったよ!灼熱のライブ!ひと夏分の熱量に襲われた気分だった。
しかも最前列で見てしまったから、どんとの躍動する何かに打ちのめされたわけである。
放心状態で帰路につく。もうそこからの記憶はない。東京へ戻る前にボクは、とても変な髪型にした。
祖父に叱られた。「なんだそれは!」と。無理もない、頭の30%を剃っちまったからね~。
美容師も困っていたっけ。ボクは衝撃を受けたら、これくらいはやらないと気が済まない。


数ヵ月が経った。下田ライブのビデオが発売されたのだ。即購入。当然そこには、ボクと友達は映っていた。
かなり無防備な姿でな。その頃には東京で活動しているバンドへ加入し、ドラマーとして動き始めていた。
リスナーとしても、すっかりボ・ガンボスの虜になっているわけで、ビデオに写っていた事がすごく嬉しかった。

95年にボ・ガンボスは解散した。
もちろん野音に行って見届けた。なんだかこの日に91´夏が終わった気がしたのを覚えている。
ボクにとっては、あの日からの4年間が、永遠に続くような熱があった。「常時常夏」といえる燃える日々。
傍若無人なライブ活動。寝ないで遊び、酒もよく飲んだ。仲間も増えた。かといって当時に戻りたいとは思わない。
野音の解散ライブを見て、ふと我にかえってしまったとも言えるだろう。ひとつの時代は終わったんだと。


 それから5年後…、どんとはパッと死んだ。1月の寒い日。どんとが息絶えたのは「常夏」のハワイだった。
知らせを聞いた時は驚いたけれど、亡くなる半年前、下北のライブハウスで見た彼は別人になっていた。
こちらの方がショック大だった。それから度々、追悼ライブや映像祭へ足を運んだりしたものだ。
それは風穴を埋めるかの様な気持ちで、亡きどんとに触れていた。沖縄の自宅で録音された3部作のCDも全部買った。
この人は、自分の死を予期していたのではないか?そんな詞がたくさんあったのだ。呼ばれていたかも。
…あの世からね。
どんとは祭りの使者だから…。

つい最近、ボ・ガンボス好きには垂涎のDVD&CDが発売される。内容は未発表映像と音源。
先に買っていた友人から、何故か写メールが届いた。そこにはボクとどんとのツーショット画面が!
下田ライブの未公開映像に、記念撮影をしている我々がピックアップされたようなのだ。えらいこっちゃである。
この時間差の映像は、何かつき動かされた。どんと29才。ボクは19才!若すぎるよ!!
よし、決めた。下田へ行こう!16年ぶりに。2007年の春、どんとを「巡る旅」へと出たのだ。
目的は2つ。

・会場だった吉佐美大浜海岸へ行く事

・どんとがソロでライブしていた店を探す事

伊豆急行線に乗った。伊東を出発して1時間で下田に到着。所々に桜が残っていた。小春日和。
駅を出た。まずは店探しから開始。手掛かりはない。「どんとが出演していた」って事だけなのである。
まず歩く。勘だけを頼りにして。40分ほど周りをうろついた。駅周辺にはない。匂いがしないから解る。
さて、困ったぞ。道に蜂蜜売りのおばちゃんが居たので聞いてみる事にした。
ベイサイドにジャズスポットが何軒かあるとの情報。海を目指した。確かに店はあったけれど、違うんだよなぁ。
地元の人に聞いて回ったが、まったく見当がつかない。下田に着いて90分。早くも頓挫かと。

駅方面へ引き返す。蜂蜜売りのおばちゃんに報告。小さい瓶入り蜂蜜を買った。いろいろ話す。
店探しは後回しにして、大浜海岸へ行く事にした。おばちゃんもそろそろ店仕舞だという。
ボクが「サクラ」になってよく売れたと喜んでいた。片付けを手伝ったら、お礼にと海岸まで車で送ってくれるという。
いや~助かるな~。午後4時ぴったり。下田駅から吉佐美へと移動した。16年前の海は健在なのか?
どんとの出演していた店はあるのか?波乱に満ちた『巡り旅』の結末は次号でお届けするとしよう。
予定調和がない。


 これこそ『旅』なのだろう。旅行とは違う。まったく異質なものなのだ。
決められている安堵感を排除する。下田どんと巡りは、そんなデラシネ(根無し草)的な旅であった。

蜂蜜売りのおばちゃんが、わざわざ車を出してくれる事になった。大浜海岸まで送ってくれるという。
道中15分。お互いの身分を説明し合う(笑)。この女性には手紙を書くべきだと思った。
海岸近くに着いた。おばちゃんともグッドバイである。さて、16年前の記憶が紐解かれるかどうかだ。

海は静かにたたずんでいた。祭りの余韻を残したまま…。ボクは目を閉じ、大きく深呼吸をした。
ボ・ガンボスの曲を口ずさむ。おい!ちょっと待てよ!いきなり雨が降り出した。
思わない様にしたって無理だよね?どんとがやって来たとしか言いようがない。ボクの中ではそういう事にした。
やっぱりだ。浜を離れたら雨は止んだ。あの世で一緒にライブをする約束を果たせたのだと思いたい。
ボクの歌い手生活は現世限定。死んだらドラマーでいく。パイの名曲をどんとに唄ってもらうんだ。

やはり海は静かにたたずんでいた。

 今日はこの大浜海岸に来れた事だけでよしとできそうだ。宿を探す前に喉をうるおそう。
ジントニックだ、ジントニック!
約15分歩く。忽然とアメリカンプールバーが現れた。即入店。『70´ブロンクス』という店だ。
広い店内にボク一人。カウンターのおねぇさんと話す。どんとの出演していた店を聞いてみた。
ん!?おねぇさんはハッとした表情をしたのだ!もしかしたらあの店かも!と。すぐ電話番号を教えてくれた。

「もしもし、私はどんとの関係したお店を探している者なんですが…」

「はい。うちですよ!」

ビンゴ!!!
おねぇさん!あなたは天使だ!ありがとうね!!その店は、『スパイスドッグ』というカレー屋さんだったのだ!
カレー屋?どんとよ、あんた面白すぎるよ~。まさかカレー屋さんでライブしてたなんて夢にも思わないって(笑)。
スパイスドッグは山の上にある。歩いて30分の距離。意気揚々と店を出たら、大雨が降っていた。
おねぇさんはそっと傘を差し出し、「頑張って下さい!」と激励してくれたのだ。下田女は母性愛の賜物だ!

 まず山を目指す。どしゃぶりの雨をかきわけているようだ。ボクは生前のどんとに逢いに行くような気分だった。
むしろこの雨のおかげで、道中がよりドラマチックになった気がしたし、天国から「謎かけ」をされている感じもした。
午後6時過ぎに到達。マスターと握手。やはりジントニックを飲みながら、どんと回顧録を聞いた。

ほどなくして別室へ通された。モニターとテーブル、そして楽器が鎮座している部屋だった。
モニターの画面から飛び出したのは、95年クリスマスの下田ソロライブの映像だったのだ!
もちろん未発表。なんとも貴重な映像だ。マスターはボクを一人ぼっちにしてくれた。
粋なはからい。オシャレな人なんだなぁ。
この日のセットリストは、どんと好きな人には垂涎ものだった。ありえないカバー曲(クラプトン)とかもあったし。

そしてボクはとんでもない発見をしてしまう。カメラが引きになった時、この日のチラシが映っていたのだ。

『どんとクリスマスSPライブ!¥1000』

この年の6月にボ・ガンボスは野音で解散している。ボクはチケットを押さえられず、ダフ屋から¥7500で購入。
正価は確か¥4500だったと記憶している。これでも値切り倒して手に入れたのだった。
その半年後に、たった¥1000でライブをしてしまう器量に脱帽した。それこそ『〇』がひとつ足りないよ!

 彼の音楽に対する姿勢や資質を垣間見る事ができた。よもや映像に映るフライヤーでそれを発見できるとは!
あっという間の1時間30分だった。余韻に浸りもう一杯飲んだ。マスターは湯水の如くエピソードを話してくれた。
へぇ、知らなかったな~、どんとが下田に住んでいた時期もあったなんてね~。何でも山頂にその家はあったらしい。
そんな歌がある。タイトルは「山の上」という。時期的にもあてはまるのだ。ラストアルバムに収録されている。

【山の上】作詞/どんと

ここには自由がある、素晴らしいな
きれいな水が湧いて、溢れている
虫たちもやってきて、血を吸ってる
恋人は隣りにいて、笑っている

日が沈んでいくよ
みんな眠れ
花も岩も雪も

おれは山の上の白い小屋に住んでいる

この歌は下田で作られた歌だと信じたいな。お!時計をみたら夜8時だ。宿を取ってない事に気付いた。
マスターが駅まで送ると言ってくれたが、片道20分もかかるので迷惑になる。タクシーを呼んでもらう。
再会を約束し、下田駅方面に向かうタクシーへと乗り込んだ。スパイスドッグの皆様、ありがとう!

 さて、宿の件だ。運転手さんに相談してみた。間髪入れずのアドバイスはこうだ、「帰った方がいいですよ」。
うん、ボクもそんな気がしていた。窓の外を見ると、雨はすっかり上がっている。嬉しいような寂しいような。
「思い」というものは、人と人とを繋げる。いや、繋いでくれるのだ。『どんと巡り~デラシネの旅』は終わった。

デラシネとは根無し草を意味するが、ボクはこの旅で思い知らされたのだった!「根っこ」はみんな繋がっている事を。


祭りの使者よ、永遠なれ!
正直に言うと悩んだ。

レコーディングをするかどうか。いや、できるかどうか?の方が正しいだろう。
前作はバンドの勢いが加速していた時期。ここだ!というタイミングさえ合わせれば、
その勢いだけで完成できると確信していた。
だから非常に短期間で作業したし、逆に言えば「圧縮密閉」しないといけないのだと、
呪文のように自分へ言い聞かせていたのだ。

短期間とはいえ、ボクは企画から日程調整、ジャケット制作、プレス会社との折衝まで、
音楽以外のセクションも全て携わった。
振り返れば半ば狂っていたと思う。期間とコストを考えたら、これでよくあの作品ができたものだと自負している。

間隔でいったら、とうにセカンドCDは出していてもおかしくはない。何故それが延びたのか?
理由として一番大きい出来事は、2005年12月に遭った交通事故だろう。あの影響はデカい。
それによって、ボク個人の「環境」も激変してしまった。はっきり言って、
歌い手としては終わったなと思った時期もある。

顔面は4箇所骨折。金属プレートが一年間留置された。建物の気持ちが少しわかったよ(笑)。
けれど不思議とバンドそのものは潰れない感じはしていた。何を隠そう自分自身が最も不安材料だった。
なにせ普段は静岡県/伊東市が生活のベースに。東京へは月2回行くのが限界。
フットワークがかなり重くなったのだ。

慌ててパソコンを購入するも、イマイチ操作がわからない。前作みたいにはいかないのである。
だが待てよ、この物理的環境を逆転発想してやれと転換してみた。つまり勢い重視の作風を除外する。
レコーディングの間隔にゆとりを持ちながら、少しづつ創作していく方にもっていくべきだと考えたわけだ。


構想から完成まで1年。スタジオワークは足掛け4ヶ月間をみてみようと。
だから基本的な録音方法は前作とはまるで違う。
まずボクの嫌いなドンカマ(メトロノーム)&別録り。しかも今回はドラムも叩くと決めていた。
やると言ったらやるしかない。
9月上旬にスタジオ入り。リズム&ベーシックトラック録音。つまり基礎工事からスタート。
この場に女組は一人もいない。

地味で面倒な事は野郎がやればいいのだ。ドラムは「脱力」に終始した。力が入ったらすぐ止めた。
ドラマーとして派手な部分の一切合切を葬って挑んだわけである。手数は極端に少ない。普段の3割未満。
「パイ的ありき」を打ち出した場合、張り詰めたような切迫した音はいらない。
これは御法度リストに入っている一つなのだ。

このリズム録りは、はっきり言って肉体と精神をかなり消耗した。慣れない事はしない方がいいのか?と。
何とかなる精神では務まらない領域がある。思い知らされたわけだ。いいじゃないか!
自分を追い込み、自分自身が気付いたんだもの。
おめでたいと言われればそうだが、「救い」とは、救われたという感情以外にないのである。
綺麗事の世界じゃないんだよ。それは間違いない。


レコ初日から2週間後に、いよいよ女組の登場。コーラス、ピアノ、アコーディオン、太鼓を録音。
装飾は女性陣に任せた。
この振り分け作戦は実に功を奏したといえる。フォクのメインVo曲は一発録り。その方が曲が活きるのだ。
そしてつい先日、夏の野外ライブで友達になった、ハルヤジンベさんを招いてのレコ。
メンバーは玄米さん、ダオさん、ケイトの3名。

アフリカンビートは人間の琴線を突いてくる。なにせ人類発祥地の産物。力強くあたたかい。
まさに大地を思わせる演奏であった。
いきなりだが、恥ずかしながらボクは海外の地を踏んだ経験ゼロ。よってパスポートも作った事がない。
だからという訳でもないが、たまに精神の領域内で「核」となるものが暴れ出す。
その核を音楽で鎮めているのかもしれない。

だいたいの人は表現の場を発散としているだろうが、幸か不幸かボクの場合は、まるっきり対極位置になっている。
ジャンべ隊の演奏で、ココロが解放されていくのがわかった。聴き手と、作り手の違いはハッキリとある。
メンバー、サポート、ゲスト含め、総勢11名の音が揃った。
アフリカ~アラブ~インド~日本~アメリカのテイストが混ざりあっている。

これはもう、『世界の祭り紀行』と表したい。その音の一つ一つに、
11人分の生き物としての証しがあると信じている。
レコーディングはメインの歌入れを残すのみとなった。冗談ではなく、
御法度リストに載らないようにせねば。


このアルバムが全人格の記録となれ!後からこのコラムを読んで、思いっきり笑い飛ばしてみたいものである。
2008年8月15日(終戦記念日)。ボクは36才になる。そう、年男なのだ。
思い起こすと、ロックが胸にぶっ刺さったのは14才。ドラムに触れたのが17才。
東京での本格始動は20才を少し過ぎてから。以来、丸15年が経過したことになる。

材木をノコギリで切り、古雑誌を重ねて叩いていた15、6才の自分がかわいく思える。
しかし見よう見まねからでも、自発的にスタートした一歩はとてつもなく巨大である。
これがなければ何もないわけだから。音楽によってそれまでの景色すら違って見えた。

一日がとても麗しいものになった。沈むことはあれど、沈み込むことはない。
音という字を分解したらうなずけた。「日」の上に、「立」が乗っかっている。
非常に力強い。おまえ自身が煮て焼いて食えと言っているような字ではないか?

だからボクはいろいろな音を出したり、また様々な音を聴いて今日まで生きてきたのだ。
そして何よりもバンドにこだわってきた。バンドはバンド。家族でも友達でも何でもない。
「バンド」という独特の集合体がたまらなく好きなんだ。例えようがない感じ。

どんなに感銘を受けたアーティストでも、ソロ活動や名義だとテンションが幾分降下してしまう。
だからボクは丸15年間すべてバンドで活動した。しかし一度だけ、独りでライブをした経験がある。
当時のバンドが揉めに揉めていた。スケジュールは決まっていたのに、キャンセルする雰囲気に。

そこはある地方。ボクのファンが何人かいた。何でもいいから叩く姿を見せろ!と。
ありがたいリクエストをちょうだいし、史上初のドラムソロでライブを敢行。
約40分間叩きまくった。この日が実質的ドラマー然として最後の演奏だったように思う。

あきらかに目覚めた瞬間があった。それは、もう前に出てやるしかない。つまり歌うしかないのだと。
しかも昭和初期のデタラメテイスト溢れる音楽を取り込んだバンドを作る決心をした。
「ライブ」という言葉が一般化され、ライブハウスの金取り主義にも嫌気がさしていた時期でもある。

自分たちの祭りをぶっ放していかなければ、ボク自身も壊れてしまう危険も感じていたのが正直なところ。
楔(くさび)を放てだ。そいつを日常に打つ。祭りとはそうやって本物の「まつり」になるのである。
それは10年間ドラムをやって学んだこと。今度は歌だ。いろいろ作戦を練った。

前例のないバンドなのに、あっという間にメンバーが集まった。世代もタイプもバラバラ。
初めてのライブは、例の独りドラムの地方で行った。終演後、ファンたちがボクにこう言った。

「どうしちゃったんですか?」
「なんで唄い手なんかに?」
「次はいつドラムやるんすか?」

ボクはハッキリと、「違う人間になったと思ってくれ」そう返答した。みんな驚いていた。
それから彼らはパッタリと会場に来なくなり、手紙やメール、花や御祝儀もすべて消えた。
覚悟はしていたが、潮が引くとはこのことだ(笑)。しかしまったく寂しいとは思わなかった。

なぜならボクは、パイの音楽性や祭り(非日常)に揺るぎない自信が芽生えた。それを手に入れたからだ。
これって実は引き算ありきから成立している。それはバンドから一度だけ独りきりになった。
ロックという進行形のジャンルからあえて逆行している。キャリアのあるドラマーからヴォーカルへ転身。

押すがダメなら引いてみなとは、よく言ったものである。それでパイは結成丸5年。
今まで5年以上も存在したバンドは、ボクの中でない。そんなものである。
しかもパイはアメーバのように姿形、サウンドも進化しているのだ。まるで予想していなかった。

これは絶対に各メンバーのおかげだ。それは言える。感謝している、心底ね。
引き算から発動し、メンバーという別のエッセンスを持った人間が介在する。
そのことにより、無限大のかけ算図式が成立してきたのだ。変化というのは麗しく美しい。

だから、だから、だから!バンドって好きなんだ!!よし決めた。キーポイントを設定しよう。
2008年中に、「15周年ライブ」をやる。唄もドラムも一切合切の全部をやる。
現在進行形で活動している仲間や、一緒にやっていたメンバーにも声をかけてみよう。

やったことのないライブをしてみたい。ボクの全人格祭りを開催するのだ。
表に出ていない素晴らしい人も引っ張り出して、非日常的な時空を一緒に泳ぎたい!
ボクは、ねずみ年生まれ。36才だから、ねずみは3匹ということになる。

唄ねずみ・ドラムねずみ・喋りねずみ。ちょうどいい。
15周年、魂のドサ廻りはつづくのだ。
な~んにも興味のない映画を見た。2008年お正月映画『シルク(F.ジラール監督作)』である。


キャスト/マイケル・ピット、キーナ・ナイトレイ、役所広司、中谷美紀、など。
舞台は19世紀半ばのフランスと日本。シルク=絹の行商人の話。ジャンルはモロにラブロマンスだ。
ふだん絶対に足を運ばないタイプのもの。ではなぜこの映画を見なければならなかったのか?

それは近日行われる講義へ参加するため。元・週刊プロレス編集長のターザン山本!さんがこれを語る。
その課題映画が「シルク」だった。事前に見ないことには何もはじまらないのだ。
12時30分、有楽町に到着。日劇3の上映は13時35分から。近くの靴屋で時間を潰した。


館内へは少し早めに入った。予想通り客入りはよくない。宣伝不足がたたったような気もするが…。
予告編スタート。後ろの初老夫婦がペチャクチャうるさい。本編が始まる前に口頭注意した。
最近の駅前改革のせいか、銀座も田舎モンが激増した。おかげで鑑賞マナーが低下している。

ボクは新宿/渋谷/池袋で映画は見ない。ずっと前から有楽町か銀座なのだ。
それはマナーをわきまえている人の割合が多いから。ムシャムシャ飯を食べている客などいなかった。
それがここ最近変化してしまっている。私語や飲食が耳や目につく。勘弁してもらいたい。

まずこの田舎モンの定義をしよう。それは、「地方に住んでいて、頬がリンゴみたいな人」を指しているのではない。
ここでは、場所や環境に適合する意識がまるでない馬鹿を田舎モンという。もちろん見た目もあり。
銀座に来て、運動着姿で闊歩しているやつも例に漏れずである。いるんだよ!ホントにたくさん。


さて、空席の目立つ劇場で「シルク」はスタートした。音楽は坂本龍一が担当。実にらしいアプローチだ。
映像も美しい。特に森や木々を悲哀的に映し出しす絵は素晴らしかった。ところがである。
キャストでわかるように、日本の役者も数名だが出演している。その舞台は雪深い北国。

そこはもう部落といっていい村なのだ。外国目線の日本。嫌な予感がする。やっぱりか~。
村社会を描くことは難しいのだ。なぜこうも日本人を曲解するのであろうか?
残念なことに、シルクもそのうちの一つであった。部落に東洋的神秘さはない。

わからないかなぁである。生活臭のしない村なんかどこにあるんだよ。途中、集中力が途切れた。
主人公の円満夫婦に巻き起こる不幸。日本の雪国部落での不倫愛。その2点がキーポイント。
物語は加速をつける。そしてラストシーン。うん!なるほど!そうだったんだな。それでよしである。

愛ある別れ。
別れある愛。
女の告げる『さようなら』に男は従え。
従わざるをえないから。
男はいつだってバカ丸出しだ。
だから女よ、さよならを言ってやれ。

ボクのシルク評は上記で集約できた。終演後、自分の実体験を思い出す。やっぱりそうだったなぁ。
女から切り出された「別れ」は100%完全に正しい。その時の環境やら状況を照らし合わせても。
ふられてよかったな~!オレ!である。そんな気分を味わえただけで、この映画を見て正解だった。


それと、一つ印象に残ったセリフを紹介したい。街を旅立つ工場長がこう呟いた。
「まっすぐ線路を敷き、曲がり道が何もない鉄道を作った男がいたんだ。
なぜまっすぐなのか理由がある。けれどその理由を忘れてしまった。人は理由をすぐ忘れてしまうようだ。」

うんうん!人間とはそんな生き物だ。それぞれの使命を持って生まれてきたのかもしれないが、あやふやだ。
その使命とやらに、理由や理屈は何も意味を持たない。無理からつければ、それは屁理屈となる。
人を愛する気持ちに理由などない。そんな理屈はすべて忘れろだ。それでよし。

男は「おどれ」。バカ丸出しで。もうどうしようもなく。田舎モンも一切合切でおどり続けろ。
そして女は別れを突きつけろ。ひと思いにぶっ刺せである。女はそれが「使命」なのだから…。
シルクを観賞し、ラブロマンス映画に興味が湧いた。いや、病みつきになったかもしれない。
2008年3月1日(土)。 午前仕事を終えて、14:06伊東発の特急列車に乗った。
両国国技館には午後4時過ぎに到着。枡席の一番前に座る。全日本プロレスは約1年ぶりの観戦。
こんないい席で見るのは初めてだ。今回は、伊東市在住の某寺の住職、つまりお坊さんが仕切ってくれた。

全日の営業さんと親しい仲だという。その方の働きかけで良席チケットが確保されたのだ。
4人掛けの枡席にボク、弟、お坊さんの3人で観戦。ビールで乾杯した。
お目当てはドリー・ファンク・ジュニアの引退試合&セレモニーである。全8試合。

全日本プロレス特有のパッケージプロレスはさっぱりしてるからよい。ダラダラ試合はなかった。
ドリーは第7試合に登場。あの入場曲は何度聴いてもしびれるんだよな~。もう最高!

すでにボクは満足気分。しかし、67才になるドリーはさすがに老けていた。当たり前だ。
全盛期の動きやキレを望むなんて無理。国技館に集まったすべてのファンはそれをわかっていた。
だから対戦相手の天龍・淵に容赦なくブーイングが飛んだ。全日本らしい、とてもやさしい世界だ。

伝家の宝刀!!スピニングトーホールドでドリーは淵からギブアップを奪い勝利する。
試合後に行われたセレモニーでのサプライズはマサ斎藤が現れたこと。弟のテリーは来なかった。
ちょっとガッカリ。しかしそんな気分はメインの健介vs小島の三冠戦が吹き飛ばした。

結果は健介が防衛したが、この日一番のインパクトは小島のラリアットである。
あんな凄まじい一撃をみたのは、ハンセン現役以来かもしれない。健介の首は大丈夫なのか?
メインの実況はあの若林アナウンサー。なんと一緒しているお坊さんの親友だというではないか。

結婚式の司会を若林さんが務めた間柄。「プロレス調」でと要望をだしたら、やんわり断られたらしい。
そりゃそうだ(笑)。若林さんにボクら兄弟は紹介された。写真も一緒に撮る。
午後9時に終わり、我々は国技館地下のパーティー会場に移動したのだった。


ドリー引退記念パーティーは武藤敬司の乾杯の音頭でスタート!
会場には全日本プロレス所属選手はもちろんだが、芸能人もちらほら姿が見えた。
花田憲子さん、沢田亜矢子さん、東てる美さん、なぜ熟女ばかりなんだ?若い人はアントニオ小猪木だけ(笑)。

途中、ドリーの愛用品オークションがあり、マニアにはたまらないものが競り落とされていた。
ブーツは10万円、ガウンが30万円という金額で落札。オレに金があったらなぁ。完全傍観者だ。
そのかわり、いろんなレスラーと写真を撮ってもらった。うれしかったのは武藤とのツーショット。

ボクらは徹底的にプロレス少年に戻っていく。感情が昭和へタイムスリップしたのだ。
午後11時、国技館を後にした。大満足だ。ドリー・ファンク・ジュニアありがとう!である。
少年時代に戻った3人は、現実に還るべく、日暮里にあるスナックで二次会を開くことに。

場末感漂う店内。ママとド素人のバイトホステスがつく。この店は一緒したお坊さんのごひいきの店。
スポンサーはお坊さんなのだ。ホステスがしょっぱかったなら、ボクが太鼓持ちをやらねば!
そこからは盛り上げ役に徹した。やっと場が明るくなった頃、バイトホステスは0時きっちりに帰った。

話しの腰を折りまくりではないか!かなり腹が立つ。そのうち1人の男性客が店内に入ってきた。
バイトはもういない。すかさずママがその客の相手をするために席を立った。
結局ボクら3人だけに。なんだこのスナックは!それから5分後、すごいのが現れたのだ!


「オヤジ」である。


カウンターの中から我々の座るソファーへ。実に力無く登場。いきなり病気自慢を話しだす。
イヤな展開だよなぁ。勘弁してもらいたい。ボクはすぐ話題を変えた。そうするしかない。
オヤジにもわかる時代のプロレスをネタにした。しかしどうにもスイングしないのだ。

外国人レスラーはシャープ兄弟くらいしか知らないという。もちろんザ・ファンクスもわからない。
あ!ようやくミル・マスカラスに食いついた。「あれね!仮面貴族ってあだ名の覆面レスラーだ」。
オヤジはうれしそうに語っていた。しかしボクらは逆に疲れていた。長い1日の影響か。

時計は午前1時を回っている。最後もやはりプロレスの話題かぁ。それも悪くないよ。
ただし、やっぱりこの状況は変である。スナックに来て、なぜジジィの接客を受けなければならないのか?
店を出たら夜風が少し冷たかった。そういえばこの店の名前を確認していなかった。

ボクは振り返って、ピンクのネオン看板を見る。このスナック、なんと『貴族』という名前だったのだ。
おい!ジジィ!こうなったら店名を『仮面貴族』に即刻変更せよ。覆面もかぶるんだ。
そうしたらきっと、「プロレスファン」が騙されて入ってくるかもしれんぞ。
「ノーカントリー」は、本年度のアカデミー最優秀作品賞の栄冠に輝いた映画である。

小田原市のはずれにあるTOHOシネマズで見た。このシネコンには8つのスクリーンがある。
その中で最も小ぶり(200席)のシアターで上映されていた。午後1時30分館内へ。
ボクは愕然とした。客が異常に少ないのだ。昨日封切りした話題作なのに、これはひどい。

30人にも満たない客数だった。東京では考えられない現象でしょう。それにしてもなぁ…。
小田原では、ドラえもんが人気を独占しているようだ。まぁ平和といえばそうなのかもしれない。
ノーカントリーを評す前に、映画は大きく3つのタイプにわけられることを説明したい。

①善と悪のわかりやすい設定、主にアクション系に多い、「爽快娯楽型」

②男と女の関係を軸としている、「ラブロマンス型」

③作品そのものの答えを、観客へゆだねている、「自力解釈型」

上記のいずれかのタイプにわかれているのだ。ジャンルではない。あくまでタイプの分類。
ボクは最近になって、好き嫌いなく映画を見ることができるようになった。
では、ノーカントリーはどのタイプかというと、間違いなく③の自力解釈型である。

つまり答えは見た人自身がひねり出さなければならないのだ。それに気づかなかったり、
拒否したりすると、この映画は単なる血生臭いゲテモノ映画にしかみえないだろう。
金を持ち逃げした下層階級の男、それを追う殺人鬼と老警官の3人物語。そのディテールは満点だった。


この3人の男たちの持つそれぞれの「哲学」や「掟」で、未来や運命は何も変わらない。
心の闇や病だけが世界を変えてしまった現実、いわば絶望的な物語。そこにアメリカの縮図あり。
この国は今まで、破壊、破綻、破滅、を金で売り買いしてきただけではないかと。
その代償やツケが、人々の帰る場所さえ奪っていった。だから題名がノーカントリーになったのだろう。
男3人は、帰るところがない男、帰れなくなった男、帰っても嘆く男、そこから噴出した絶望がそれぞれにあった。
その絶望感を救済していたのが、哲学と掟。それはバカな思い込みに過ぎないと…。

暗く重苦しい作品だったのは言うまでもない。闇という暗部が物語のすべてを支配していた。
しかし、そこまで思っていたボクだが、終演後、まるで違うことを感じていたのだった。
先に述べたが、キャスティングやキャラクターの設定は完璧。その斬新な作りは、さすがはコーエン兄弟だ。

驚いたことに、この映画はサントラがない。音楽での演出はゼロ。だから風の音が切なく鳴り響く。
そういう引き算的発想が特別マッチしていた。まぁそれはあくまで手法の問題である。
ノーカントリーは好きなタイプの映画であるが、好きな映画ではない。それは言える。

アメリカの暗澹たる部分など、わざわざ見たくもない。そんなものに付き合わすなって!
そして一番病的なのは、映画そのものの内容でなく、これを最優秀作品賞にしたアカデミーなのだ!!
そうなるともう、無条件にコーエン兄弟の勝利。彼らにとってアカデミーは遊びアイテムだった。

賞というものを意識したからこそ、わざとストーリーを錯綜させていた。ボクはそう感じたのだ。
この映画を見て、混乱したという人がいたら、それはコーエン兄弟に敗北したと思うべきである。
つまり、自力解釈型のような見せかけ。そんな究極的演出をしていたのかもしれない。

シリアスだからといって、すべての監督がガチンコ勝負を仕掛けてくると思ったら大間違いなのだ。

そうかぁ~。 ノーカントリーは、「おかっぱ頭男のキチガイ珍道中物語!」と、見た方が100倍楽しめたんだな!
病んでいるのは何もアメリカだけではない。この世の誰もが帰るところなんてないのである。
前略。
ピンカラ様
いや、、、ミチヒコ(本名)様

静岡県伊東市「うさみの園」での慰問ライブお疲れ様でした。激動の2日間だったね。
久しぶりの伊東、久しぶりの老人ホーム、夜の打ち上げ、キミの楽しいという記憶に刻まれたことだと思います。
パイも今年(2008)で結成5年を経過。早いものだよね?初めてのリハーサルを覚えている?

それまでロックしかプレイしていなかったキミは、「昭和流行歌」の曲調に戸惑いまくっていたよな?
頭を抱えていた。最初の20分で逃げ出そうと思ったんだって?いきなり分岐点かよぉ(笑)。
そうして思いとどまって早5年。それこそたくさんの地でライブをやってきた。

老人ホーム慰問はパイの原点かもしれない。だから今回の「うさみの園」は、メンバーみんな楽しみにしていたんだ。
今まで地方への引率はボクがしていた。けれどもうその役目は退くよ。なぜならボク自身が地方在住になったから。
だから適任者はキミしかいない。なにせ渋谷区/渋谷在住でしょ。都会派ではないか!頼むよミチヒコ。


2008年4月26日(土)。当日の入りは午後2時前にと、担当者の福本さんと約束していた。
今回の参加メンバーは、みやうち君、フォクシー、ケイト、ヘーマ、そしてミチヒコ。総勢5名である。
機材車のみやうち君以外は電車移動。つまり女2人だけ連れてこいと。午前10時33分東京発。

この快速に乗るよう指示。無事に乗車した、と、そう仕事中にメールが入ってきた。フォクシーには朝電話までしたという。
状況報告できるようになったんだなぁ。ミチヒコは成長したよ。5年前には考えられないことなのだ。
し・か・し!油断大敵。いつも感心した直後に必ず御破算にする。それがミチヒコ。それがキミという人間だ。

熱海で東海道線から伊東線へ乗り換え。連絡時間は約4分。案の定、指定した列車に乗車できなかった。
メールでその言い訳。「人ごみで無理でした」だと。お前は低学年か?人ごみくらいかきわけてこい。
もっと平和的な解決策はいくらでもある。連絡用階段近くで下車しろ。一番前に乗ってどうする。アホか。

腹が立った。ミチヒコへはこうメールした。「しょっぱいな、おまえ。次のに絶対乗れ」とひとこと。
それ以降、キミから連絡は来ることはなかったよな。報告はすべてケイトがしてきた。目に浮かぶ光景…。
「やっべぇ~、ヘーマさん怒ってるよぉ、ケイトが連絡してよぉ~。あ~お腹痛くなってきた」

きっとこんな感じだったはずだ。30分遅れで宇佐美到着。ボクの実家へ来てもらう。昼飯を食べようか。
ボクは母に頼んで、地元名物の釜上げシラスと、蟹味噌汁を用意していた。腹が減っては戦はできぬである。
さぁどうぞ!…あれ?ミチヒコの箸が進んでいないではないか。いったいどういうことなんだよ?

「あぁ~電車で菓子パンなんて食べなければよかったぁ~~~」

軽く暴力で訴えた後、我々は会場である「うさみの園」に向かった。正面玄関すぐのところにスペースがある。
中に入って驚いた。お年寄り約100名がすでに待ち構えていたのだ!ヤ、ヤバい。リハーサルなしだ。
セッティングの間、フォクシーがアコーディオン弾き語りで繋いでくれた。よかったよなぁ、ねぇ?ミチヒコよ。

本番は、楽しい時間をみなさんで共有できたと思えるものだった。うれしさを土産に、午後4時30分、施設を出る。
メンバー一行は、知り合いの民宿(梅田民宿)に 宿泊。打ち上げ開始まで2時間ほど休憩してもらう。
夜、居酒屋(ちばちゃん)で豪華な食事をいただいた。みんな楽しくお話しているのに、ミチヒコ!おまえは毛ガニ食いすぎ。

下をうつむいたまま、カニの身をホジホジしてやがる。隣のフォクシーは肴にあわせ熱燗を飲んでいた。
キミ何飲んでる?え、「巨峰サワー」か。なんでもいいけどよぉ、毛ガニの旨味がかき消される組み合わせだな。

フォクシー→石川さゆり
ケイト→鬼束ちひろ
みやさん→中島みゆき(!)
ボク→久保田利伸
ミチヒコ→氷室京介(!!)

これは場所を移して入ったカラオケ屋さんで歌った歌手名。まったくバラバラなレパートリー。パイらしい(笑)。
深夜0時、3次会(クラップス)へ。〆はピザ。ここで事件が起こったんだよな。ミチヒコ大暴走である。
よしゃあいいのに、「Death」という猛毒、いや、猛辛チリソースをピザにたっぷりつけて食べた。

ボクは一滴で口から火を吹いたほど。ミチヒコ大撃沈である。おまえはやはり今日という1日を御破算にしたのだ。
午前2時40分解散。宿舎に戻る。ボクだけ実家へ。翌朝10時に起こしに行く。連中はゴロゴロしていた。
パイというバンドの原風景の一つに、この「ゴロゴロ」がある。脱力系の他愛ない会話が最高に心地良い。

今回はフォクシーの恋話で盛り上がった。このメンツで恋の話題になることは珍しい。
みんな思いを寄せている雰囲気の中、ミチヒコの雄叫びが和客室に轟く。走ってトイレへ駆け込んでいったのだ。
どうやらケツの穴が昨夜の「Death」に犯されたらしい。彼のおかげで、恋話からケツ話になってしまう。

ミチヒコ、キミは帰り道に言ったよね?「ライブハウスより老人ホームの方がいいですね」と。
うん。それは意外だ。結成当初に逃げ出そうとしてたキミから、まさかそんな言葉が聞けるとはね。
う~ん感慨深いものがあったよ、正直。ありがとうな。…で、ミチヒコよ!おまえいったい伊東へは何しに来たんだ??


かろうじてベースを弾いていたことはわかった。
ま、細けぇことたぁ抜きにして、これからもよろ…、、、
いや、細かいことを抜きすぎるなよ!ミチヒコ!


草々。
………バカヤロー!

ふと思い出した。3年前のことを。



その情景、匂い、雰囲気、気分、頭の中でそれらがフラッシュバックする。それはまるで「閃光」のように…。
それと一緒にある言葉もリンクしたのだ。2005年/埼玉県蓮田市でライブ(祭り)をやった1日。場所は小学校のグランド。
当時、結成丸2年が経過した頃。ライブハウスを飛び出して様々なシチュエーションでライブをこなしていた時期だ。

自分の中でその喜びと不安が相互関係にあった。慣れたようでそうじゃないみたいな状態だろうか?
とにもかくにも、変わりダネの感じがする場所でのライブが刺激的だったのだ。しかしこの日は相手が子供。
ボクは当時、老人だろうと誰であろうと、“いつもの”パイのパイコンバートを見せればよいと思っていた。

もちろんこの日もライブハウスと同内容。結果はどうだったのかというと、子供は我々に近づくことさえしなかった。
依頼者からは、次回はアニメの主題歌とかやってほしいと言われてしまう。大ショックだぁ。敗北感丸出し状態である。
それでも飯だけはしっかりゴチになる(笑)。夕方過ぎに打ち上げ会場へ。これがまた関係者たちが狂乱の盛り上がり。


誰ひとり着席していないのだ。なんか取り残された感じがした。まぁ、敗北感ありで乱痴気騒ぎはできない。
しかし、気づけばボクも唄わされていた。フォクシーも民謡をリクエストされている。盛り上がりは最高潮に。
居酒屋の座敷は、まるでシアトルのグランジライブハウスと化していた。もちろん苦情の嵐である。

その勢いのまま二次会のカラオケ屋に移動した。そして夜中、この狂乱の打ち上げはお開きとなった。
主催者が締めの挨拶している中、ある人物にボクは話しかけられたのだ。ウワッパリ(作業着)を着た初老の痩せたオヤジに。
「どうしても連れて行きたい所があんだけどよ。ちょっと時間ねぇかな?」と、そう言われたのである。

時間は0時近くだったはず。真夜中にどこへ連れて行く気なんだろうか?ボクは好奇心をつつかれた。
迷わずにオヤジの誘導についていく。メンバー全員も一緒だ。10分は歩いた。駅とは逆方向へ…。
真っ暗…。街灯もさびしい。闇の世界といった方が適切だ。ジャリ石が敷かれた広い駐車場に入った。

「すぐそこだから」、オヤジは呟いた。ところがネオンはおろか、看板や店風の建物なんてまるで見当たらないのである。
正直どこに行くのか不安な気持ちになる。その瞬間!オヤジは暗い玄関口で動きをピタリと止めた。
なんだよ~ただの家じゃんか!こっちはお姉さんが隣に座るお店だと薄々期待していたんだけどなぁ。


自宅へ招待ってわけか?イヤだ。絶対イヤ。ご家族は迷惑千万だからである。気が引けるなんてものではない。
メンバーの誰も歩を進めようとはしなかった。そこまで図々しくはない。オヤジは呼び鈴を鳴らす。
パッ!と室外灯に明かりがつく。ガチャリとドアが開いた瞬間、目に飛び込んだもの、それはガスレンジ。

台所だったのだ。つまり裏木戸から我々は室内に入ったことに。肩身がよりいっそう狭くなった気がした。
そこには奥さんと思われる中年女性と、若い息子がいた。何も言わずに焼酎と水と氷がテーブルに出される。
乾杯を小さな声でした後、ボクはここで初めてオヤジの名前を聞いた。サイトウさんというらしい。

世間話を軽くしていると、ボクたち2人のグラスが空になった。間髪入れずに、息子がこう言ったのだ。
「サイトウさん、同じのでいいよね?」……サイトウさん?どういう事だ?名字で呼ぶなんて。
ま、ま、まてよ!そうか、そうだったんだな。ここは斎藤家ではない。れっきとした“店”だったのである!!


サイトウさんはこの店の常連客だったのだ。しかし店内(?)は100%台所。ダイニングキッチンではない。
「おかって」と言った方がふさわしいだろう(笑)。途中、青年の弟が帰ってきたり、夜食食べ出したりしていた。
頭がクラクラしたのは言うまでもない。「溶け込み居酒屋」か?いや、ママがいる。ならば「民家パブ」だな。

午前3時前後?に解散。記憶は定かでない。面白いことにメンバーもいまだ、この民家パブでの記憶が曖昧なのである。
サイトウさん、ごちそうさま(笑)。元気にしているのかな?相変わらず常連客を貫いているのだろうか?気になるなぁ~。
そして民家パブを後にした帰り道、みやうち君と昼間のライブの話をした。例の敗北感の胸のうちを。

どうしたら離れている客を惹きつけることができるか?それが今後のテーマだと、そうボクは言ったと思う。
それを聞いたみやうち君の返答は、まったく予想していなかった言葉だった。驚いた。一気に酔醒めだ。
「いいのいいの。別に遠くに客が散らばっていたって。“なんかやってるなぁ”で十分じゃないかね」

ボクはあの日、この言葉によって救われ、また考え方や世界観も変化したと思っている。
当然それによって、バンドの打ち出し方も変わった。肩意地張ってもツマラナイ。そういうことなのだ。
四角四面の看板なんか掲げたくもない。“看板に偽りあり”なら、あの民家パブのように、看板も偽りもない方がいい。


またどこかでなんかやっていたいんだよ。
下の文章は、忌野清志郎が、2008年7月14日(月)にリリースした“お知らせ”である。

『妙に前向きなのはなぜだろう。腰にガンが見つかった。心配はしないでくれ。ぜんぜんヘコんでないから。
ブルースはまだまだ続いているというわけだ。…(中略)…もう一度言おう、夢を忘れずに! 2008年7月/忌野清志郎』


この文はスゴい。ガンを再発した人が文頭から“妙に前向きなのはなぜなんだ”と言っている。
過酷な闘病生活を“ブルース”にたとえている。そして文の最後に“夢を忘れずに”と結んでいるのだ。
文末のくだりは、最初にガンを患った時にもそう記されていた。世の中には苦しんでいる人が大勢いる。

もがいている人たちがたくさんいることだろう。その原因は大なり小なりである。
大したことじゃないと一概には言い切れないが、単なる「ボヤキ」にしか思えない苦悶(?)もごろついているのだ。
咽頭ガンになった50代半ばのロックシンガー。一度は華々しく復活し、その5ヶ月後、再びガンは骨盤に転移した。


こんなに残酷なことはない。なぜならそれは「つかの間の復活」だったからだ。あんまりだ。
 「とにかく清志郎さんは、前にしか目が向いていない人種だ」
かつてバックでベースを弾いていた藤井祐は、「不確かなメロディー」というドキュメント映画でそう話していた。

清志郎本人は、もしかしたらそんなキャラクターを演じていたのかもしれない。それは考えられることだ。
しかしガンの再発は、天国から地獄へ引きずられた気持ちになったはずである。そんな時、キャラで発言はできない。
できっこない。だから、“妙に前向きなのはなぜだろう”と発したロックシンガーは、とてもリアルにうつった。

いきなり胸に響いた。この言葉がボクの頭から離れない。清志郎の文章は、この「冒頭」がすべてといえる。
それは、小さなことに悩み、日々ボヤいている人たちへ、「くよくよするなよ」と言っているように思えたのだ。
生命(いのち)満ちあふれる声明文を書いた清志郎は、とても立派なブルースマンである。



本物のブルースが流れるような男に、オレもなりたい。
とうとう丸1年が経過してしまった!

レコーディングがスタートしたのは2007年9月2日。日にちまでハッキリ記憶している。
なぜってこの日は妹の結婚式&披露宴があったからだ。もちろんボクは不参加。妹には恥をかかせたかもしれないが、
「ワタシの兄はこういう人間ですっ!」と、新郎側の親族にわからせる為にもちょうどよかったんじゃないかね?

とにかく親戚が増えていくことが煩わしい。血の繋がりのない人たちは全員他人でいいんじゃないの?ボクはそう思う。
儀式めいたものに歩調を合わすなんて、貴重な1日が無駄になる。ご両人だけでそれは済ませればいいのだ。
みやうち君はそうした。奥さんと2人でグアムで挙式をあげ、録画したビデオを親族に配布したらしい。筋通ってるよ。彼らしい。

というわけでレコーディングはスタート。総勢“11人”の音が重なりあったというわけだ。
今回は勢いだけの作品にしたくはなかったので、各セクションの間隔を開けながら進行していった。
ところがである!逆にこの「間」がマズかったのだ。あっという間に年を越し、ボクは正月も遊びほうけてしまう。


一度この怠け癖・遊び癖がつくと、なかなかカムバックできない。けっきょく予定していた7月発売は延期。ヤバいぞー!
その時点でボクの尻に思いっきり火がついた。バックドラフトといっていいだろう。大火である。
季節は春。すでに5月に入っていた。ジャケット製作、レコード会社との会談、レーベル旗揚げにむけての資料作り。

それに合わせてHPをリニューアル、ブッキング、地方ライブ、全国のストアに置かれるフライヤー製作…etc。
とにかく同時に何かを動かしていないと回らない。しかも平日は伊東市にいる。おまけにパソコンが扱えないときた。
頭で文章やデザインはほとんど出来上がっている。そこで一番大事なのは“言葉”。これしか頼りにできるものはない。

考えていることを作り手へ解りやすく説明できるかどうかなのだ。おかげでそれは、かなり上達したたと自負している。
止まるわけにはいかない状況になると、人間は思いがけない引き出しがカパッと開いたりするのだ。
それより、ボクの頭の中を“具現化”、また、“賛同”していただいた方々には本当に感謝している。

当然といえばそうなのだが、一枚のCDが完成し、それが全国発売されるということは大変なことだ。
様々な人たちのサポートがないと“形”にはならない。バンドのメンバーもとても頑張ってくれたが、
人によってはまさに“他人事”のプロジェクトの為に、ギャラにもならない謝礼で携わってくれた皆さん、ありがとう!
おかげでその結晶といったら大袈裟だけれど、類い希な作品ができたと思っている。ようやく尻の火はトロ火になったぁ!


…と思ったのも束の間、実は大大大トラブルが発生していた。パイの今年の天王山というべき9月の2daysライブ。
その初日、「渋さ知らズオーケストラ主催/木更津大作戦!」への出演の話が通っていなかったのだ!
もう冷や汗すらかけなかった。しかし焦っても無駄。出演決定を確認しているのに!なんぞとケチをつけてもしかたない。

「渋さのイベントに出演したいんだ!」という気持ちを実行部の方に素直に伝える。これしかないだろ。
電話、メール、そして不破さんには手紙まで書いた。一時は9割不可という状況が一転!ギリギリの出演決定となったのだ。
さすがにその報を受けた夜、部屋で1人祝杯をあげたものである。この騒動も過ぎればネタでしかないか。

あ、出れなかったらさらに“暗黒ネタ”になったな(笑)。さて激動の9月&10月はスタートする。
消えかけた尻の炎は消さずに燃やしておくことにしよう。ひと段落したら、ビールとジントニックで消火活動するつもりだ。



※アルバム製作をサポートしてくれた方々を紹介します!


HAKA(メディアリーフ)/ジャケット&コーディネート
Siba(フリーカメラマン)/写真
アラさん(webデザイナー)/フライヤー
アヤノさん(アパレル)/フライヤー
ナガミさん(ビッグピンク)/サウンドアドバイス
竹川さん(ディスクユニオン)/セールアドバイス
山本!さん(フリーライター)/キャップコピー


以上7名の皆々様、この場をかりて厚く御礼申し上げます。


荻野平馬より

2008年/秋の日、ボクは楽しみにしていたライブがあった。出る方ではない、“見る方”である。



場所は静岡県・伊東市にある「クラップス」という店。小さなスペースのカウンターバーなのだ。
やって来るアーティストは、伊太知山伝兵衛&村上“ポンタ”秀一。デュオでのライブ。
機材現地調達でワゴン車一台でミニツアーしているという。伝兵衛氏は夜毎歌っているブルーズシンガー。

去年、50才のバースデーライブをNHKホールで開き成功させたばかり。伊東にもよく来ているのだ。
ポンタ氏は言わずもがな。国内外で活躍しているトップドラマー。現在まで約15000曲をレコーディングしている場数王。
この強者たちが伊東でライブをすることを知ったのは先月。そこでドラム機材の一部をレンタルさせてほしいとの打診があった。

二つ返事で快諾!スネアドラムを提供する事になったのだ。天下のドラマーに自分の機材を使用してもらえるのは光栄である。
先に日誌の方でお伝えしたが、20代前半に最も強く影響を受けたのは、紛れもなくポンタ氏なのだ。
仕事が終わり急いで会場へ向かう。午後8時に到着。店内に入るとグラサンかけたオヤジ2人がヌボ~ッと立っていた。


ん?不穏な空気を察するのに時間はかからなかった。お二人にご挨拶。伝兵衛さんと握手し、ポンタさんとも……、
「猛烈に腹が立っているから近寄るな、すぐクールダウンするから」……マ、マジかよ。
今回はワゴン車移動のため、必要最小限の機材しか積んでいない。アシスタントも帯同していないのだ。

ところが“シンバル”だけは手持ちのものをと、何十枚か用意させたらしい。しかし!やってくれた!やらかしてくれた!
アシスタントは、ハイハットシンバルをケースに入れ忘れていたのだ!そりゃ誰だって怒るよぉ(笑)。
ポンタさんは、16インチのタイプ違いのシンバル2枚を重ねてハイハットにして急場を凌ぐ。

道端で数十枚のシンバルたちを見せてもらった。発売されていないモデルの出来のよさを説明してくれたり、
実際に叩かせてもくれた。即席のドラムセミナー。ボクひとりだけのためにである。贅沢すぎるではないか。
前にも言ったが、有名無名問わず、自分が興味のある人や好きな人には、どんどん話をするべき。

遠慮会釈は無用なのである。ズケズケ感はマズいが、訊くということに真剣になる。
そうすると人との距離がぐっと近くなって、一つも二つも踏み込んだ話が聞けるのだ。
伝兵衛&ポンタのデュオライブは30分押しの午後9時半からスタート!


のっけから機材トラブル発生!例のハイハットだ。スタンドがぐらついて動いてしまっている。
慌ててガムテープ片手のボクは走る。バスドラからペダルが脱落、シンバルスタンド組み直し、
葉巻の灰皿用意、酒、譜面の整理、、、完全にアシスタント、つまり“ボーヤ状態”になってしまったのだ!

第1部は40分(7曲)で終了。奥のテーブルでポンタ御大は芋焼酎のソーダ割りを飲んでいた。
なかなか第2部が始まらない。もう客と同化しているのである。ずっと下ネタ話。スルーするとゴネる。
非常にやっかいな日本一のドラマーなのだ(笑)。ようやく11時にライブ再開。やはり7曲をプレイ。

もうボクは今夜、ボーヤに徹することにした。なかなか体験できるものではないからだ。
アンコールが終わったのは0時近く。とにかく驚くべきは、その音色の多さであった。
ボクのスネアにこんな艶やかな音が眠っていたんだと思ったら、ちょっと感動して涙腺が緩んだ。

そしてドラムという楽器の素晴らしさを改めて思い知ったような気がする。いい時間を過ごせた気分だ。
ライブが終了し、ドラムをばらしていると、ポンタさんはボクの肩を抱き、「気を遣ってくれてありがとな」と言った。
カッコイー!すごく自然な感じだったのがにくいねぇ。こうして貴重なボーヤ体験は幕を閉じた。


さて打ち上げだ。お客さんも15名は残ったはず。深夜1時になるとその数は半分に。
2時で4~5人。3時になると伝兵衛さんは車に乗った。本来は明日に備えてお2人は車で帰宅予定だったのだ。
ところがポンタさんはボクに、「おまえもう少し付き合えるか?」 と耳打ちしてきた。

あたり前だ。帰るものか!外に出ていた伝兵衛さんに、「オレまだ残るからよ」ポンタさんはそう言って手を振った。
それから明け方まで飲んだ。ボクに使用していたサングラスや葉巻などをプレゼントしてくれたのだ。宝物が増えた。
会話も深い話になっていく。それはとてもこの場でお伝えできる内容ではない。そんなディープな話が聞けて幸せだったのだが…

店のマスターが泥酔モードに。ボクたちにさんざんからんでくる。深イイ話をしてるのに、不快な気分になった。
おっさん、飲むとだいたいこうなる。ボクはもうなれたものだが(前に殴ったけど(笑))、ポンタさんは鬼の形相。
57才と51才のオヤジに挟まれているボク。行司じゃあるまいし。大鵬と柏戸の対決みたいではないか!


「平馬、店出るぞ」そうポンタさんが言ってきた。朝5時過ぎである。こんな時間に営業している店があるわけない。
飲み屋街をぐるりと一周廻ったところで、「平馬の家に行かない?」と、同級生みたいな感じで御大は提案したのだ。
イヤというほど業界からVIP待遇を受けてきた人が、いきなりこんな若僧の家にふつうは泊まろうとはしないだろう。

それをするのがまたスゴい。偉大なる“ドサ廻り魂”だ。タクシーを飛ばす。宇佐美にある実家に本当に来た。
二階に上がりボクの部屋に通す。デ・ニーロの巨大ポスターに反応していた。パイの新譜を紹介する。
今、聴こうぜとなった。朝6時に爆音で流す。「こりゃ面白いな、いいぞマジで」ボクはもうヤッター!の世界だ。

ようやく就寝となった。ボクは45分だけ寝て、仕事へ出発する。疲労は極限状態。初めてタクシー通勤してやった。
ポンタさんも起床してすぐタクシーで帰宅したようだ。仕事を終えてクタクタになって部屋に戻る。
そこは葉巻の残り香が充満していた。それは「人生で忘れられない出来事」に華を添えているように思えたのだった。




※ところで思い出したことがある。

早朝帰宅した時に、いつもは喜び吠えするバカ犬(室内犬/柴とビーグルの雑種)が沈黙していた。

さてはビビったな?

まぁ無理もない!ポンタさんはステージ衣装。そのシャツには虎2頭がでかでかとプリントされていたのだから。


晩夏の日。

まいった…。これはもう血の気がひくどころか、糞小便まで干からびるほどの衝撃だ。
9月13日に予定していた、渋さ知らズ主催/「天渋(野外イベント)」、この出演が見送られたのだ。
依頼者と地元イベンターとの連絡が滞っていたのが理由。それがボクの耳に入ったのは、なんとライブ2週間前。

ホントに人間が不意をつかれた時、喜怒哀楽という感情の引き出しに一瞬鍵がかかる。
たぶんその時のボクの顔は、豆鉄砲で撃たれた鳩のようだったに違いない。いわゆる“間抜け顔”である。
渋さ知らズは、嗜好性がまったく違うパイのメンバー共通のお気に入りアーティストなのだ。

ライブも一緒に行ける。実際に何回も足を運んだ。見る側だった我々が、同じステージに立てるなんて!
こんな嬉しいことはない。出演依頼を受けた時は天にも昇る気分だった。各方面へのインフォも早めに行っていた。
そこにきての一方的な取り消しである。そりゃ鳩にもなるってもんよ。ホロッホ~ホロッホ~…

これは落胆しても、怒っても、ホロッホ~と鳴いてもムダだ。ボクはすぐバンマスの不破さんに手紙を書いた。
もちろん依頼者&イベンターさんにも、電話やメールでボクの気持ちをイチから伝えたのである。
あがいても進展する見込みがない。ならば、思いという“念”に頼るしかないではないか。それにかけた。


初秋の日。

快晴。秋には程遠い真夏日。暑い。ボクたちはついに「天渋」のステージに立つことができたのだ。
ライブができたうれしさでいっぱいだった。ところが前日リハーサル後に、ある事実を知らされる。
それは、女性メンバーのフォクシーが、インドネシア人のエモン君と結婚したというのだ。

彼女は先の音楽活動ができそうにないことを告白。つまり日本を離れる可能性もあると。
木更津は青い空でよかったが、ボクの胸の内は「青天の霹靂(へきれき)」だ(笑)。笑うしかない。
しかしヘラヘラしてもいられない。このライブの翌日(08/9/14)に、パイ初の完全ワンマンが予定されていた。

CD「祭祭祭祭祭」発売記念ライブである。午前11時からサウンドチェック。皆、前日の疲れを一時封印。
この日こそが我々にとって、本年度最大の山場だったからである。ボクはカフェに入り、気持ちを切り替えた。
午後2時10分。本番スタート。満員の会場。ボクはすべてを忘れ、まさに「無」の境地で歌った。

そこに祭りあり。アンコールが終わってすぐ、「もう現時点のまま止まれない」という思いが芽生えたのである。
ひとりのメンバーが日本を離れるかもしれない。はっきり言ってこれは緊急事態だ。
ボクらは09年に、アメリカでパイの祭りを展開するという無謀な夢の実現に向かっていた。

だから各メンバーには、少なくてもここまでは一丸となろう!そんな約束を交わしていたのだ。
だがフォクシーは、移住することによってその大事な約束を破った。はっきりいって怒りは大噴出した。
後日、正式に彼女のインドネシア行きが決定されたのである。師走には出国するという。


初冬の日。

ワンマンから2ヶ月経過。怒りはとっくに鎮まっていた。あのライブを境にボクは変わったのだ。
9月14日はパイの記念日になるだろう。その日のライブを彩った1人は、紛れもなくフォクシーである。
ステージの誰か1人でも欠けていたら、後の「変化」を楽しめるような状態にはならなかっただろう。

Djembe急行の玄米さんからメールが来た。『平馬さん、喜ばしい裏切りってあるんだね!』と。
その数日後、こんどはターザン山本!さんから便箋3枚の入った手紙が届く。
『インドネシアが楽園になるのか?それはフォクシーさん。君はお客に、日本を楽園だと思わせることが使命だ!』

『ピンチもチャンスも関係ない。どうってことない。あらゆることを楽しむだけだよぉぉぉ!』こう結ばれていた。
玄米さん、山本!さん、どうもありがとう。ボクにはまだ安息の地はないことがわかりました(笑)。
パイはまた新しい一歩を踏み出すだろう。フォクシーは異国の地で、幸せと感じるような日々を送ってもらいたい。

お土産を忘れずにな。今からリクエストする。インドネシアの歌だ。手土産ならぬ、喉土産ね。
そしてまたフラッと現れろ。それにしても2008年秋冬は激動という以外に言葉が見当たらないものになった。
ボクはいまだ冬支度ができないでいる。けど平気さ。“ココロの寒風摩擦”は抵抗力抜群になるのだ!


摩擦熱だけで背中から火もおこせるぜ!
ダーッハッハッハッ!!
ダーッハッハッハッ!!
ダーッハッハッハッ!!


【INFORMATION】

◆12月21日(日)
◆東京・高田馬場「四ツ谷天窓」
◆午後1時半開演(パイは午後2時45分~)
◆¥1500+D

※21回目の遊戯搾りまつり!08年度最終公演!乞うご期待!!





 この1年間(08’)で50本の映画を見てやろう。そう自分に課していたのだ。
クリスマス直前の休日、ついにその本数に達する。まずは50本の作品名を月別ごとに紹介しよう。


☆1月
ショーシャンクの空に
カオス
ブラッドダイアモンド
シルク*
ハンニバルライジング

☆2月
インサイドマン
アース*
アメリカンギャングスター*
ニキータ
ナチョリブレ
ラストコーション*

☆3月
ノーカントリー*
アメリカを売った男*

☆4月
ホリデイ
バートンフィンク
エターナルシャンシャイン
リトル・ミス・サンシャイン
男はつらいよ(2話)

☆5月
男はつらいよ(6話)

☆6月
ラスベガスをぶっつぶせ*
ミスト*
リボルバー*

☆7月
アモーレスペロス
ビバリーヒルズコップ
ギャング・オブ・ニューヨーク

☆8月
ハプニング*
マルコビッチの穴
ダークナイト*
イルマーレ
バットマンR
バットマンビギンズ

☆9月
ハンコック*

☆10月
アイアンマン*
バンテージポイント

☆11月
ゾディアック
おくりびと*
ラストワルツ
オーシャンズ13
クローバーフィールド
キル・ビル2
プラダを着た悪魔
P.S アイラブユー*

☆12月
ミーン・ストリート
スターウォーズⅡ
スターウォーズⅢ
プライベートライアン
フレンチコネクション
シャイン・ア・ライト*
モーテル
ワールド・オブ・ライズ*
ウォーリー*

(*印=劇場観賞作品)


 映画館で見た今年の新作は18本。DVD購入やレンタルで見た旧作が33本。
合計51作品。ボクの知人に年間3、400本チェックしている猛者がいるが、
この「51」という数字は少なくはないと思う。月別で傾向がまるで違うのが面白い。

 映画を一度見出すと中毒症状になる。だから本数の多い・少ない月がハッキリとしているのだ。
さて、18本の新作から、個人的に印象深い“傑作”を紹介しようと思う。
その基準は、ボクの胸に響いたかどうかが全て。あくまで私的感想なので気楽に読んでいただきたい!


◆荻野 平馬が選ぶ「2008年優秀作品賞」その3作品は・・・


「おくりびと」
「ウォーリー」
「ダークナイト」


 邦画がここに入っていることが嬉しい限り!滝田監督のセンスの勝利といえる。
伊丹作品に通じる作風。淡々とした、実に日本人らしい、日本人が得をする映画が、「おくりびと」だった。
その対極な位置にいるのは「ダークナイト」である。とにかく規格外のスケール。

アクションシーンの迫力は類をみない。しかし単なる“勧善懲悪”ではないのがミソ。
ボクはジョーカー(ヒース・レンジャー)に肩入れをしたほどである。ヒースの怪演に拍手。
早すぎた死が悔やまれる。さて、ボクの今年ナンバー1は、同点で「おくりびと」と「ウォーリー」。

 この2作品で決まりだ!ウォーリーがまさかこんなに凄いとは夢にも思わなかった!!
久しぶりに泣いた。しかも劇中3回も!最近の映画はセリフが多すぎる。説明的な世界って野暮なんだよな。
驚くべきは「ウォーリー」だ。冒頭から3、40分セリフなし。それが良かった。斬新だった!


◆荻野 平馬が選ぶ「2008年優秀俳優賞」その3名は・・・


ヒース・レンジャー
山崎 努
ラッセル・クロウ


 ヒース死亡(薬物過剰摂取)のニュースは驚かされた。これからの役者だっただけに、
残念無念である。けれど死んでしまったらそれまで。この世にいなければ新しい世界はないのだ。
そうなると、「おくりびと」の山崎 努は偉大である。あの黒澤作品から一線で活躍しているのだから。

納棺会社の社長役には脱帽した。多くを語らずの設定も功を奏したといえる。文句なしのナンバー1。
ラッセル・クロウは、パチーノ&デ・ニーロの後がまといえる“役者バカ”。場面が一瞬にして締まるのだ。
「アメリカン・ギャングスター」での刑事役は、ラッセルだから演じきれたとボクは思っている。


 とにかく映画は素晴らしい。もちろん当たり外れはある。しかしこの“当たり”に巡り会った時の嬉しさ。
それはもう気分最高!平坦な日常に抑揚が生まれ、乾いた日々が潤うのだから。
こんないいことはないよ!また来年も“映画時間”をきっちりと設けるつもりである。ご静聴に感謝。



※ちなみに「最低作品賞」を1つ。こちらはぶっちぎり(笑)。


「リボルバー」


です!ご注意くだ…いや、あえて見るのもいいかもね。良かったという方がいたら、ぜひ御一報を(笑)。

ボクは今、36才。

1972年生まれである。
若くもあり、そうでもないという"サンドイッチ"世代だ。
幼年期~思春期にかけて強烈な体験をした。いまだに色あせていないそれは「3つ」ばかりある。


(1)映画

 祖父が映画館をいくつも経営していた。そのおかげで、ものごごろついた時から映画をみている。
ボクが4才の時に上映した、スピルバーグ監督の代表作、「ジョーズ」は幼児には刺激が強すぎた。
家の目の前は海。海水浴場なのだ。ところが、あの劇中の人喰い鮫に襲われるのではないか?

そんな恐怖というか、トラウマに数年間悩まされた。いくら両親が諭しても信じれなかったのだ。
それほど少年にはショッキングな映画だったのである。次に夢中になったのはブルース・リー。
つづいてスターウォーズも毎日(14日間)飽きもせずに見た。驚くべきは子供の集中力である。

今とは比較にならない。脳内物質が暴れていた。まさにそれは、“トランス状態観賞”といえるだろう。


(2) 食べること

 常日頃から、なるべく美味いものを口にしたいという願望が強い。誰もがそう思うことか。
ただしこの場での話は嗜好的範疇ではない。好みはたしかにあるが、それ“以前”の問題である。
これもまた衝撃(?)を受けたことに遡る。母の存在だ。母親としての存在意義ともいえる。

ボクの母は「母性愛」が量的に足りていないように思う。いや、枠から飛び出しているのだ。
なぜならば、本当に家にいる時間が少ない(笑)。別に愛人がいるわけではない(いたりしてね)。
単純に、じっとしていることができない。つまり家の中に楽しいことは無いと思っている人なのだ。

そのかわり、3人の子供たちを自由にさせた。ブツブツ説教をされた記憶はない。
しかしである。食卓はそりゃあヒドイもの。キツイぞぉ。常に“やっつけ仕事”だから。
なので父を含む弟妹の4人全員が料理を作れる。いや、食べ物によってはプロ級の腕前である。

ボクが高校生になって、友達の家を泊まり歩いたことで、自分の家の異常さがわかった。
外食をするときの凄まじい高揚感、期待感が大きかったのも、母のダメ料理のせいだと思っている。

上京してからの毎日は自炊生活。その初日、荷物が到着。差出人は父親だった。
ダンボールを開けたら、ナント!すべて「調味料」なんだ!とりあえず笑っておいたけど…。


(3) 音楽

 この年齢で、しかも地方と都内のW生活をしながら、パイで活動しているには幾つかの理由がある。
そのトップが、“好きだから”だ。あとのことは戯言と言えるかもしれない。
キライなら辞めてる。そんなもん当たり前じゃないか。しかしもう「好き」だけでは済まされなくなった。

人からお金をもらっている以上は、少なくとも来て良かったと思わせないとね。
ボクもたくさん先人たちのライブに行って、払ったお金以上の何かをもらったからだ。
ストーンズを武道館で見た時、清志郎(RC)の野音、ボ・ガンボスのフリーライブ、…etc。

「あぁ、生きていてよかった~」と、そう思ったものである。もちろんライブだけではない。
アルバムもそうだ。いったい今まで何枚のCDを聴いたのだろうか?そう思うと、逆に世界は広い。
まだまだボクの知り得た音楽は、氷山の一角にすぎないのだ。知りたい気持ちは大きい。

しかし、知らなくていいものもある。実はこれこそが、このコラムの重要なテーマなのである!



 「3つ」のことは、ボクにとってなくてはならないもの。その分、他のことよりも強い執着心がある。
一度も、「観たり・食べたり・聴いたり(演奏したり)」を、拒絶したことはない。
病気や事故で入院した時にだって、回復のバロメーターは、この3つを基準にしたほどである。

それほど思い入れが深い。長きに渡って支配されているといっても過言ではないのだ。
ところが、ボクの中で今、これらのことに注意信号が点滅している。それは去年の出来事。
横浜中華街へ行った時のこと。「海員閣」という店。高級店ではない。しかし行列が絶えない有名店である。

ここへは2度目。1回目は家族で来た。もはや25年前にもなる。その時の感激が忘れられない。
もちろん当時食べた何品かの料理は記憶していた。だから、同じものをボクは注目したのだ。
焼売、海鮮炒め、牛バラそば、五目炒飯。これがテーブルに並べられた時は嬉しかった。

ところが、そのどれもが25年前とは違って感じたのである。すべて美味いのだが、、、
「感激」に値しないのだ。食べながら考えた。すぐに答えがでる。それは、
店の味は落ちていない。自分の舌が育ったのだと。つまり、味覚がワガママになったのだ。

なるほど、こりゃ全てに置き換えられる。食事をはじめ、音楽もそう。映画もである。
いろんなジャンルやアーチストに数多く触れると、確かに感性は急成長することに違いない。
しかし、どんどん欲求も増してくるもの。人間の欲は天井知らず。無理もない話だ。

だから人は欲望を満たす為に、金と時間を惜しみなく使うのである。いきすぎると、これは恐い。
その回転が早いほど、すべてを“消費”してしまう危険度が増す。ボクが今まさに直面していることはこれだ。

自分自身の感性を金だけで手に入れたくはない。欲望に歯止めをかけないとヤバいのである。
例えばボクがもっと高価なものに執着心を強く持っていたとしたら…そう思うと恐ろしい。
現在、大問題になっている世界レベルの大恐慌。その元凶は、人類の果てしない“欲望”が起因しているのだ。

感じる(Feel)ことを二の次にした罪。素通りしないと追いつけないスピード社会の罪。
罪には罰がある。罰を受けるスペースはボク自身の中にない。2009年はスタートしたばかり。
いいタイミング。今年のテーマは、あらゆるすべてを、消費/消耗しない生活を送ることに決めた!


最後に、「不況なんて屁でもねぇ!!」そう付け足しておこう。

毎年ボクは、春の訪れを待ちわびる気持ちが1ミリもない。皆無だ。
なぜってそれはあの憎々しいスギ花粉の仕業。小学生の頃から、花粉症に悩まされている。
鼻と目にアレルギーの諸症状が出てしまう。例年だと2月中旬過ぎからだが、09年は幾分早い。


くしゃみ
鼻水
鼻づまり
目のかゆみ
涙目
疲れ目
喉の腫れ
喉の渇き
頭重感
無気力症


↑いち、に、さん、、、、10個もの症状が4月中旬まで、約60日間も続くのだ。
去年は薬代(市販薬)が、¥8000以上もかかっている。飛散量が少ないといわれていたのに!
冗談じゃない。新たなる治療を取り入れ、なんとかこの忌まわしい2ヶ月間を乗り切らなければ!!


 そこで今春は鼻の穴焼いちまおうと。もう一網打尽の精神である(笑)。
「餅は餅屋」、耳鼻の専門医に診察してもらい、当日手術でお願いしてみよう。
4、5年前に開院した耳鼻科が実家近く(伊東市)にある。たいへんに混雑していると聞いた。

 予約は専用フリーダイヤル。東京帰りの熱海駅からTELする。番号57番。
「現在診察は20番の患者さんです」というアナウンスもあった。
待ち時間はざっと2時間はあるはず。しかし病院へ直行。問診表に記入してから自宅待機でいいからだ。


 院内は花粉症と思われる人と、風邪(インフルエンザ)の患者が数人ほど待合室にいた。
あ!受付の女性は同級生のSちゃんではないか!10年ぶりくらいの再会である。
なに?キャンセルでたんだ!すぐに入れるって?そりゃラッキーだ。どうもね。

 診察室に入ると、なんとまた待合所があった。さすが混雑回避の策をねっているんだな。
いよいよ診察が始まる。年齢不詳(たぶん50才前後)の先生にボクはいきなり、「焼いていただけませんか!」
元気よくそう言った。「そうね、やってしまうかなっ」と、ハイテンションな先生の返事が。

 その瞬間、長い筒状のガーゼが目の前に現れる。鼻の穴を器具でムギュッと広げられた。
そこに6、7センチはあろうかという筒状ガーゼを鼻の奥、いや、奥の奥奥に挿入されたのだ。
このエリアはもはや喉だって!痛がる暇もない。ボクはあっけにとられてしまった。


 これは麻酔だという。15分間安静に。診察室すぐそばのベッドで横になる。
その間も先生は、矢継ぎ早に次々と患者を診ていた。まさに烈火の如くだ。超早口。
なんというか築地の魚市場みたい。患者を競りにかけているような錯覚におちいってしまった。

先生は語尾に、「だなっ!」がつく。それを発見してしまったのだ。「インフルだなっ!」とか。
エンザすら省略してんの(笑)。そのやりとりを聞きながら、ボクは横たわっていた。

 再度診療チェアーへ。さて本番かと思いきや、先生の右手には注射器が!そういうことか~…
さっきのガーゼは麻酔するための麻酔だったのだ。また器具で鼻の穴を広げられる。
そして奥の奥にブスリと注射が打たれたのだ。痛いよぉ~。そしてまたベッドで休憩。

 15分後、いよいよレーザー手術が開始された。時間にして両方で3分間。これもまた痛い痛い!
当然だよ、ジリジリ焼いているわけだから。鼻血ブーである。血が口にまわる。
最後の休憩。鼻に詰めたガーゼはすぐ鮮血に染まった。うわ~っの世界だ。


 ようやく止血してきた時、また子供の患者と先生のやりとりが聞こえてきた。
診察が終えた子供が、大きな声で「先生~ありがとうございました!」と挨拶をしたのだ。
それを受けた先生のレスポンスがすごかった。笑劇的だった。

「どういたしましてだなっ!」

 先生!そこに“だなっ”を付けたらダメでしょ!ボクは必死に笑いをこらえる。
そしたら、止まったはずの鼻血がしたたり落ちてきたではないか!
かなりの量だ。両穴だけのことはある。まいったよ~。まったくもうだなっ!

 20分後に退室。薬が処方された。すべて合わせると¥7500也。高くはない。
家で安静にせよ。風呂は入るな。鼻に詰めたガーゼは朝、自分で抜き取れ。以上が堅守事項。
ゴロゴロはしていたが、風呂に入った。背面姿勢で洗髪もした。ガーゼは就寝前に取った。

 長い筒状のそれは、見るもおぞましい物体だ。それから5日後に“儀式”があるという。
バキュームで“かさぶた”を吸い取るというのだ。午前中に仕事を終えて病院へ向かった。
診察室へ。鼻の穴はおっぴろげられた。「口は閉じて下さいね」と、注意される。

 別に開いていても支障はなかんべぇ…ジュルッ!あぁ!「目を開けて、目を開けて!」
先生の甲高い声が響く。ゆっくり目を開く。その先には、ゲル状の“かさぶた様”が見えた。
これを見せたかったの?どうでもいいよぉ~。しかし、ご満悦な先生の顔を拝んだら、不満も消えた。


 手術をしたとはいえ、アレルギー症状を抑える薬は飲まないといけないようだ。
ジルテックという薬を20日分出されて終了。さて現在、術後2週間以上が経過。
花粉は例年より10日も早く飛散した。しかも2月の中旬に25℃あった日も!記録的暖冬。

 手術した効果は?え~「ちょびっと楽」という程度です!!
人にオススメできるような、そうでないような、とにかく微妙な状態なのである。
ひとつだけ言えるのは、ジルテックで、すっかり胃をやられてしまったことだ!



 やっぱりボクは春がキライだ。
 冬からいきなり夏になれといいたい!!


レイトショーで「スラムドック$ミリオネア」を見た。



 小田原市にあるトーホーシネマズに到着したのは、午後8時35分。
しかも火曜日である。職場のスタッフの運転で来た。彼らもまた映画好き。
お互い前々から気になっていたのが、このスラムドック~だったのだ。

 話題になったのは昼。思い立ったら吉日だよ。仕事がハネたら行こう!となったわけ。
この作品はアカデミー各賞を総ナメ。試写会を見た友人の白沢さんからは、
「ここ数年みた映画で一番イイですよ」とメールをもらっていたのだ。期待度も高い。

 窓口へ直行。レイトショー料金は1200円。と、出口からぞろぞろと人が出てきた。
スラムドックの客か?まさかね(笑)。どうやら邦画(タイトル忘れた)を見終えた人たち。
みんな顔が暗い。さては凡作だったな。お気の毒に。ボクたちはスクリーン6に入る。


 180人収容の小さいホール。そこに約20人くらいの客入り。
平日のレイトショーにしては健闘しているのでは?15分の予告を挟み、
いよいよ本編がスタートした。さすがはダニー・ボイル監督だ。最初からグイグイ引っ張ってくる。

 ボイル監督の代表作は、あの「トレインスポッティング」。この作品もそうだが、
追う/追われるの描写が最高なのだ。すごい切迫感。他の追随をゆるさないという感じ。
やはり今作でも得意の“追いかけっこ”が冒頭にあった。インドのスラム街の子供と警官。

 もちろん悪さをした子供たちが、警官に追いかけられるのだ。はしゃぐ子供の顔がいい。
まったく悪びれていない。ボクはもうこのシーンで、これはクソ映画ではないと直感した。
子供は、悪い事をしたくて悪さをするのでなく、追いかけられたくてそれをするのだ。

 退屈しのぎ以外に何もないのである。貧困層や裕福層なんか関係ないって。
すべての子供たちは、暇で窮屈で、日めくりの毎日に退屈さを感じて生きているのだ。
ハラハラドキドキを常に味わいたいと思いながら、日々生活しているといっていい。


 ボクもそうだった。だから、あのスラム街のクソガキの無鉄砲さが懐かしく思えた。
さすがに警察に追われることはギリギリなかったが、実にゆる~い悪さを“仕掛け”ていたのだ。
怖い体育教師の歩くルートをリサーチ。そのポイントに犬のウンコを置いておく。

 見事的中。それを毎日やる。そうすると、体育教師は誰の仕業なんだ!となる。
捜査線上にあがるのは数名しかいない。もちろんボクは必ず入っているわけ。
ウンコが調達できずに、木工用ボンドに砂をかぶせて踏ましたこともあった。

 そうこうしているうちに、まったく別件のことで追い回されたのだ。
いや、オレはお前にもっと酷いことをしているのにな~。そう思うと、叱られても愉快だった。
スラム街の子供たちも、そうやって大人が理解しえないことをやって気を紛らしていたのだろう。


 貧困脱出を夢みる兄弟。人身売買の闇結社から共に逃げ出した女の子。その子に恋をした弟が主人公だ。
やがて大人に成長した弟は、ミリオネアという日本でも馴染み深いクイズ番組に出場する。
一問正解するごとに賞金が倍になっていくというやつだ。

 貧しさゆえに満足な教育を受けていない人間が、次々と難問を突破していくのに、
大人たちは疑惑の目を向けはじめる。1日目の収録が終わると、弟は警察に強制連行。
イカサマを自白させようと拷問にかけたのだ。しかしそれは愚行にすぎなかった。

 弟はすべての答えを自身の知識、記憶、教養、これを総動員して答えていたのだ!
しかも番組出場は一獲千金の為でなく、恋した女の子との再会のきっかけ作りだった。
弟の恋心はケタ違い。まさに執念といえるもの。そんな“念”が、知能を全開にさせたのだ。


 この映画のクライマックスは、知、念、運、この三つ巴(みつどもえ)の戦いとなる。
いやぁ素晴らしい物語だ。いわゆる映画のもつすべての要素が盛り込まれていた。
アクション、ラブロマンス、コメディ、ミュージカル、そしてクイズである。

 超・新しいタイプの傑作といえよう。プラスしてインドの貧困問題や宗教対立もテーマにしていたが、
ボクはその部分よりも、子供たちが無邪気にはしゃぐシーンと、バラックの空撮シーンが印象深い。
インドは極彩色を多く使う。バラック屋根の群れは、マドラスチェックのように美しかった。

 とかく貧困層は無知無能というレッテルが貼られている。しかし、貧しいからこそ、
記憶力と洞察力が強烈に養われる。そこに恋という無限のパワーが加わった時、
人は思いもよらない“運命”を引き寄せるのだ。約2時間でそれを見せたダニー・ボイル監督はスゴイ!



 「スラムドック$ミリオネア」のアカデミー受賞に異論ナシ!!
ボクは映画を見終わったあと、あのスラム街の子供たちのように、無性に走り回りたくなった。




まだいてほしいのに、この世を去ってしまった人がいる。忌野清志郎だ。



 2009年5月2日、午前0時51分逝去。死因は癌性リンパ管症。当日深夜にそれを知る。
訃報はニュース番組のトップで扱われていた。ボクは復活すると信じていたのだが…。
去年2月、喉の癌から復帰した清志郎は、華々しく「完全復活祭」と名を打ったライブを行っている。

 日本武道館。当然足を運んだ。その数日前にはNHKのスタジオライブもあり、これも行った。
2つのパフォーマンスを見て、以前よりも声が響いていたことを感じたのだ。
喉の癌は声帯近くにあり、切除手術を拒否。放射線と抗がん剤による治療で克服したのだ。

 あの突き刺さるような声を蘇らせるなんて、本当にミラクルである。
だから骨盤に癌が転移したことを知った時、清志郎なら絶対に大丈夫だって。
亡くなる半年前も、ブルースブラザーズの来日公演に飛び入り出演していたし。

 今年の夏あたりに、野音で「続・完全復活」があるだろうと期待していたのだ。
しかし現実は…残酷だった。早すぎる。いったいなんなのだ。最悪な結末となってしまった。
ボクは途方に暮れた。淋しい・悲しいとはまた違う、生まれて初めて味わう“感情”だったように思う。


 ボクがRCサクセションから衝撃をうけたのは14才の春(中学3年)。
それから23年間、清志郎の歌と共に暮らしてきた。喜怒哀楽のすべてを曲にできる人。
そこにある“突端の気持ち”を歌にできるのは、ボクの中で唯一人。清志郎だけだ。

 ラブソングひとつにしてもスゴイ。ボク自身が女の子に向けた好意の何倍も、
歌詞の中のわずか数十行のコトバの方が、人を愛する気持ちの強さを持っていると感じさせてしまう。
怒りもそう。哀しみも、おふざけも、すべて“真のコトバ”が歌に封入してあるのだ。

 だからなにかにつけて様々なアルバムの中から、その時の気分に適した曲を引っ張り出して聴いていた。
人との出逢いや別れ、出発の時、サヨナラの時、病気の時、くさくさする時、悶々とする時、
春夏秋冬、晴れ曇り雨、酒酔い、一人、大人数、移動、入院、海山、そして鼻歌。

 ありとあらゆる場面で清志郎は流れている、今も。そんな人生を送ってきた人は少なくない。
ボク以上に、ショックやダメージをうけた人は、まわりにかなりいるだろう。
みやうち君もその1人かも。彼は訃報から、関連作品を聴く・見ることを遠ざけていると言っていた。


 …と、ここまで書いていたのだ。5月の下旬あたりだった。それからピタリと筆が進まなくなる。
義務感にかられて文を書くなんてことはしたくない。またそのうち書く気分になるはず。
そんな思いを抱きつつ、1ヶ月以上が経過。早いもので清志郎の死後から丸2ヶ月が経った。

 その間に、ボクの大好きだったプロレスラー、三沢光晴が試合中のアクシデントで死亡した。
海外では、あのマイケル・ジャクソンも亡くなったのである。
たった2ヶ月で、時代をけん引していた人物が、何人もこの世から去ってしまったのだ。

 ロック(ポップス)界、プロレス界にとってはかりしれない損失である。だって、すげぇ人たちなんだもん!
話を清志郎に戻そう。生前中のインタビュー(テレビ)で、とても驚いた発言があった。
「あなたはナゼ歌うのですか?」という質問に、清志郎は「使命です」と即答していたのだ。

 いつもなら“はぐらかす”内容の質問なのに…。当時、この放送を見た時はビックリしたなぁ。
「上っ面なめたような歌が多すぎますからね」と、そう付け加えていた。
まさしくその通り。前述したが、喜怒哀楽の突端部分を過剰なまでに『うた』にできる人。

 ロックとソウルを“混ぜご飯”のようにしたメロディーに乗せていた。
ボクは箸と茶碗を鳴らしながら、いつもこのご飯のオカワリを要求していたのだろう。
ライブなんてマンガ盛りの大ばん振る舞い。…これがもう食べれなくなってしまった。

 一人の歌手が亡くなっただけで、なぜこんなに落胆するのか?ボクはそのことをずっと考えている。
おそらくそれは、清志郎が作ったこの“音楽のご飯”が食べれなくなるという現実。
23年間の満腹感は空腹感になり、あっという間に喪失感へと変化するんじゃないか?

 飢餓状態になったらどうしよう?あのキラキラしたご馳走を二度と口にすることができないの?
それはあんまりだ。新曲が聴きたい。ライブに行きたい。動く姿を目で追いたい。
両手を大きく持ち上げて拍手を鳴らしたい。口ずさみたい。つまりボクはまだ困ったままでいる。




 ということで今回のコラムは、とんだ散文となってしまった。
まとまらない、集約できない、決着がつかない、こんなことだってある。
世の中、円周率は「3」と設定された。しかし、本当は3.1419…………果てしなくつづく。

 割り切れないものが数式にだってあるではないか。感情にこそ、そんなものだろ?
しかし、“切っても切りようのないもの”が、この世に一つだけ存在する。それこそが「死」である。
今、はっきり言えること。それは、58年間の生涯を、忌野清志郎はまっとうしたということだ。

 ホントは“おめでとう”と言わなければならないはずだよね。

 オメデトウ!清志郎!
 バンザーイ!
 バンザーイ!!
 バンザーイ!!!





深夜2時ケータイが鳴る。「平馬さん、フェスティバル出演が正式に決まりました!」



 声の主は一昨年前、シカゴへ嫁いだタカちゃん(たこす)だ。四ツ谷天窓のライブ前日だった。
半ばあきらめていた、ワールドミュージックフェスティバルへの出演。
ブルーズの聖地/シカゴ、ジャズの発祥地/ニューオーリンズ、ここでライブがしたい。

 パイが結成した6年半前から、これはボクの夢だった。パイのような日本的バンドだからこそ、
なんとなく異国の地へ行けるような気はしていた。CD全国発売がそれを手繰り寄せた感はある。
音源でのオーディションも自信があった。冠に“ワールドミュージック”と付いている。

 洋楽かぶれのクソバンドじゃあるまいし!絶対に通ると確信して待っていたのだ。
予め仕入れた情報だとフェス開催は9月。シカゴのあらゆる場所でステージを組んで行う。
街をあげての巨大な音楽祭りであるということだけ。

 タカちゃんには去年の来日の時から話をしていたのだ。赤羽のミスタードーナツで。
イベント出演する木更津へ向かう朝だった。2人とも妙な自信だけはあるから、
話がかなり壮大になった。フェス以外に、シカゴの街中で何回もライブしようとか(笑)。

 地下鉄だ~、ライブハウスだ~、CD販売にTシャツ製作して売ろうぜ~。
けっきょくその“ミスドミーティング”は、1ミリも現実的な話にならず終了。
しかし、フェス事務局へ「祭祭祭祭祭」を送ってもらう約束だけはする。

 年が明けた。季節は寒い冬から、あっという間に春めいてしまった。
3月下旬。なんの音沙汰もない。それでもタカちゃんは、「アメリカ人はのんびり屋ですから」
と、ケセラセラな返事を繰り返す。それもそうだ。なるようになる。なるようになれ~だ。

 3、4月と川崎・パワーズ2でライブをした。後半の方は、敬愛するドラマーの村上ポンタさんと共演。
なかなか味わえない時間を過ごすことができた。その時も、「アメリカでやりますからね~」
そう客前で宣言していたのだ。ところが5月になっても返答がない。ちょっと諦めムード。

 のんびりにも限度ってもんがあるだろ!タカちゃんへ方向転換を告げる。
「フェスティバルにこだわっているわけじゃないから、ライブハウス中心でやろう」と。
そんな感じで動きはじめた時、やっとこ待ちわびた“正式決定”の報が舞い込んだというわけだ。


 決まったことで様々なことが動きだす。これは今でもそうなのだが(09年8月現在)、
連絡ひとつ取り合うことからして大変なんだ。時差が14時間、14時間だよ!
昼と夜が逆さま。いつもだいたいタカちゃんメールは、深夜3時前後にくる。

 物事を円滑に進ませるには、なにごとも瞬発力が重要なのだ。
起床するのは午前7時。メールを読んで返信するも、4時間以上の“間”は痛い。
この2ヶ月半、ボクは朝からフルスロットル。いくつもの事を同時進行させなくてはならない。

 だが、プラモデルが組み立っていくように、アメリカ公演は少しずつ現実的なものに変化していった。
すべてタッチできるという自由がある。それはもう喜びの世界といっていい。
そんな中で、クソ面倒だったのはパスポートの取得。ボクは37才にして初海外。

 しかも身分を証明できるものは保険証しかない。運転免許なし。住基ネット証もない。
つまり顔写真付きの証明書がねぇんです。これにはまいった。不便以外に何ものでもない。

 今、証明書申請するのに必要な提示書類が2点いるらしい。
伊東在住のボクであるが、住民票は荒川区だ。書類を揃えるのに丸々1ヶ月を要した。
保険証と、もう1点は印鑑証明書。区役所でそれを発行するのにも、身分証が“2点”いる。

 ふざけるな!!オレをテロリスト扱いしやがって!!ムカついた!!善良な区民ではないか!!
いよいよ有楽町の交通会館でパスポート発行。そこで1万6千円も取られる。高い。
提出用の写真がテロリスト顔だったのか、引き渡しの時、あきらかにボクだけ確認時間が長い。

 帽子取れ、メガネ外せ、右の額にほくろがあることもチェックされたのだ。
パスポートひとつでこれだよ。それからフェスティバル事務局へ提出する機材要望書と配置図作成。
Tシャツのデザイン(2パターン)をyoss君に依頼。仮デザインをチェック。

 1つの方はアメリカでプリントされることになった。サイズバリエーションも設定する。
そして最大の問題を解決しなくては!日本から参加できないメンバーが“多数”でたのだ!!
さてどうする!?
さてどうなる!?





次号へつづく。

まいったな。

 メンバーのピン(ベース)、玄さん(ジャンベ)、ケイト(桶太鼓)は不参加となった。


『メンバー探しか~』

 まずはベーシスト。これは永見さんに頼んだ。彼は某バンドでベースを弾いていたのだ。
OK!しかし彼とは現地集合。ライブが終わったら、テキサスとニューオリンズの旅に出るとか。

 まさかあの重いベースを日本から持参するわけには…、レンタルの申請しよう。
それから打楽器担当である。タカちゃんに相談した。「シカゴで和太鼓やっている人おらんかね?」

 何日かしたら連絡があった。ナント快諾してくれた人が現れたというではないか!
しかもアメリカ人(笑)。和太鼓クラブの先生をやっているジョン・ヨストさんに決定。

 この方、アフリカンドラムの教則DVDまで発売している。もちろん初対面。すごい縁である。CDはEMS(郵便局国際郵送)で発送した。12キロ。¥16600也。高いって。

 そこにジョン先生から要求されている「ライブDVD」を同封した。
5月の四ツ谷天窓ライブの資料映像。見た後、思いっきり断ってきたりしてな(笑)。


 『実にアメリカらしい話をしよう』

 ボクとタカちゃんは当初、いろんな場所でライブをやろうと話していた。
実際に何本か仮決定されていたのだが・・・フェスティバル事務局からの通達が届く。

 そこには、「他所でライブをしてはならない」というものだった。
「DO NOT~」←ここだけ大文字だったらしい。恐ぇえよ。12時間かけて行って、ライブ1本!?

 そりゃ少ない。まずはぶっちゃけ、この契約事項を重視するか否かである。
そんな時、ある方が電話をくれた。とにかく一度、海外在住のミュージシャンに聞いてみろと。

 メモを用意。その方が紹介してくれた人は、なんと、山岸潤二さん(ニューオリンズ在住)だった。
知る人ぞ知るブルーズギタリスト。ボクは相談内容をケータイで打ち、山岸さんのアドレスへ送信した。

 それから1時間もしないうちに、ご本人直々にメールの返事をいただいたのだ。

 「パイのパイHPにある音源を聴きました。絶対にウケるし、ボクもファンになったで」

 いやぁ嬉しい。またまた変な自信がついてしまいそうだ。しかし、つづく文章は、

 「契約をむやみに破ると、初海外で初訴訟となるかもしれんよ」

 それだけは御免被りたい。今回のライブはフェスだけに集中しよう。


『テーマは“祭響”だ』

 …と、微妙なテンションになってしまったのも束の間、ラジオ出演決定の知らせがきた。
生放送。インタビューとライブで3曲演奏してもらいたいというオファーだ。

 しかも、客入れするという。マジかよ!誰が見に来るわけ?そのあたりが気になるところ。
9月18日/正午オンエア。ってことは、フェス出演当日。ちなみに本番は午後7時~。

 慌ただしい1日になるだろう。今現在まで下準備に追われてきた。どちらかというと“外枠”の部分。
そろそろ音楽のことを考えたい。本番の演奏時間は60分のステージとなっている。

 はっきり言って、パイのパイお得意の“崖っぷち綱渡り”な状況であることには違いない。
いつものことだって?しかし異国の地というお初感が、不安を駆り立てているのは確かだ。

 たまに頭の中が悪いイメージで支配されたりもする。金髪美女なんか一回も登場しねぇよ。
だがしかし!あの赤羽ミスドから根づいている、妙な自信だけは萎えていない。

 自信だけ勃起しているのだ!ボクは、パイのパイの祭りを響かせるためにシカゴへ行く。


祭響!!

いざ米国へ!!!


「歯ブラシは日本から持っていくべきだよ」



 渡米する2週間前。初海外で何を日本から持参すればよいのかわからないボクに、
方々の人たちがそうアドバイスした。2009年9月14日出国。
午前10時45分成田発の飛行機に搭乗。12時間後シカゴ到着。長かった。

 「ワールドミュージックフェスティバル」への出演は18日夜。
同日昼過ぎからラジオ公開収録もあった。場所はダウンタウンにあるカルチュアルセンター。
ここに至るまではけっして楽ではなかった。なかなかの獣道だったのだ。


 まずリハーサル。太鼓&パーカッションのジョン・ヨストとは初対面。
一年ぶりに参加は、現地在住のたこす。そして、サポートベーシストに永見さん。
そうなんだ、オリジナルメンバーはボクとミヤウチ君だけなのである!

 ところ変われば“人も”変わると。リハ2日目を終えた時点でボクは、
大幅にセットリスト(演奏曲)の変更も考えた。ノリが合わない曲はカットしようと。
初参加のジョンは、パイの音楽そのものを掴めずにいたのだ。無理もない。

 最終日。本番想定リハ。びっくり。ジョンの太鼓が見事に融合しているではないか!
彼のプライドをみた瞬間だった。そこに気迫すら感じる。
この日、全体合わせは2時間で終了。だが、日本人のみでダラダラとスタジオにいた。


 腹が減る。いい加減もう帰ろう。たこす推薦のレストランへGo!
ありゃ~。車が停められない。向かいのレストランの駐車場はガラガラ。
ちょっと停めさせていただこう。美味いバーガーをたいらげ車に戻る。

 明日の朝食の相談だ。近所にスーパーがあるって?我々はそのまま歩いて向かった。
地元密着型の一般的なスーパーマーケットとはいえ、超品数豊富。
陳列も実にダイナミックなのだ。買い物を済ませて、またバカ話をしながら道を歩く。

 と、ボクの前を歩くたこすの動きがピタリと止まった。

「く、く、くるまが無い…」

 何言ってんだ?肩越しから駐車場を見る。ゲッ!マジで車が姿を消しているではないか!
機材一式積んだ車。人間こんな時、一番悪い想像をするもの。つまり盗難にあったのだと。
とにかく慌てても仕方ない。まずはここのレストランで何か聞いてみよう。

 たこすが青白い顔で店内から出てきた。待機していた我々の頭上を指差す。
レッカー会社の看板だ。ボクはその瞬間半分助かったと思った。
無断駐車をした戒めに支配人か誰かがここに電話したに違いないと。

 仕事中のライアンへ、たこすは電話をして事情説明をしている。
折り返し連絡あり。「車はレッカー移動されていた」との報告だった。
この時の安堵感は忘れられない。しかし、レッカー料金170$は痛い。

 みんな(5人)で割り勘。このくらいで済んでよかった。
もし盗難されていたら、車とレンタル機材の弁償金はもとより、
ライブすらできなかったであろう。恥さらしを超えている。きっと帰国も延期してたな(笑)。


 よし!これで厄落とししたと思うべき。ライブ当日は午前7時半起床。
毎日の朝晩、デカイ歯ブラシ(米国産)でブラッシング。日本から持参しなかった。
ボクにはこのデカブラシが合っている。毛の部分は日本製品の倍はあるだろう。

 朝食作り。サラちゃんは味噌汁担当。ボクは何を作ったのか忘れた。
とにかくがっつり食べた。気合い十分。一本目の会場に午前11時到着。
カルチュアルセンター内にある劇場でラジオの公開録音。

 フェス出演する幾つかのバンドが選ばれ、PRを兼ねてライブをするというもの。
リハをする時間がカット。ぶっつけ本番。こんなもん慣れている。
まずは1曲演奏(東京節)してから、インタビューコーナーへ。

 ピ~ッ!ピ~ッ!すごいマイクのハウリング。けっきょくそれは最後まで調整されなかった。
ステージ後方にPA(超巨漢)が座っていたので、終わり際にクレームを言ってやろう。
鼻息荒く近づいていくと、巨漢は満面の笑みで「Good Job!」とサムズアップ。

 一番デカイサイズのTシャツも買ったみたいなことも言っている。
この陽気さにはバカ負けだよぉ~。どうでもよくなっちゃった(笑)。
楽屋には山ほど料理や飲み物があったが、スルーせざるをえない。

 フェスティバルのトップバッターという大役が待っている。
機材をまた車に積み、会場のあるネイビーピアへ移動。
ここは日本でいうとお台場みたいな観光地。老若男女が遊んでいるエリアなのだ。


 野外ステージ。その両サイドはビールの売店。ステージ後方にバドワイザーの看板が。
楽屋へ案内された。うわ~鏡張り、トイレ&シャワー付きではないか!
ほどなくして七面鳥のサンドイッチが届く。これがまた美味かった。

 腹いっぱい。じゃあそろそろサウンドチェックでもやろうとなった。
おいおい!デカイ黒人がステージをうろついているよ。
え!?あいつらがPAなの?物々しい雰囲気を感じる。トラブル発生は聞かなくてもわかった。

 音が出ない。“うんともすんとも状態”なのだ。よぉよぉ、「音」くらい出せよな!
なんでもパイのライブが急遽ラジオで生放送されることになったという。
それで、いろいろ接続が変わってしまったのが原因らしい。

 その間なんと1時間!本当に日が暮れた。スピーカーから音が出た瞬間、
この黒人PAは歓喜の雄叫びを何回もあげていた。…本日2回目のバカ負けである。
リハーサル10分間。もうなるようになれだ。本番は60分のステージ。


 曲間には、しっかり昨日の「レッカー移動事件」のことを英語で話した。
もちろん読みながらだけど。全8曲。クライマックスは「本当だ節」だったように思う。

 観客の熱が伝わってきた。ジョンの太鼓も最高。彼は本番に強いタイプなんだな。
たこす、ミヤウチ君、永見さんも“憑き物が落ちた”ような顔をしていた。

 そして本番後、ボクは幾つもの“驚き”を味わうことになるのだった!

 次回の「寄せましょ」はここからスタート。乞うご期待!


 フェス出演の翌朝。またあのデカイ歯ブラシでゴシゴシと歯を磨いていた。



 昨日は、盆と正月がいっぺんにきたような1日。それにしても驚くべきことが幾つもあった。
まず本番終了後、ステージ袖で1人の日本人女性に声をかけられる。
予定されていた新聞社の取材。その記者の方だと思っていたのだが・・・

 「伊豆新聞見て来ました」

 は?まさかシカゴでそんなローカルな単語を聞くとは思わないボク。
え??一瞬頭が混乱してしまう。再度、その女性に聞き返した。

 「私は下田市に住んでいます。前からこちらに来る予定になっていたんですが、
新聞を見たらネイビーピアでやられるとかで、思いきって来たんですよ」

 マジっすか!その方は土屋さんという。たしか舞台俳優をしてらっしゃるとか。
明日はまた飛行機に乗って違う州に渡るという。びっくりしたな~。
まさか、まさか、地元民と遭遇するとは思わないよぉ!

 それと、東京からもわざわざパイのライブを見に渡米してきた人も。
バビロン佐藤さんである。3泊5日のベリータイトな日程。
デトロイト経由→シカゴ深夜到着。帰路は早朝なんだって?信じられな~い!

 活動日数は2日間。つまり48時間である。ライブ前日の夜、
彼は這々(ほうほう)の体で現れた。車が忽然と姿を消した時のボクら以上に、
血の気が失せたような青白い顔。たこすに土産を届けに来たという。

 鞄から取り出された品物は、なんと「政権交代饅頭」だった!
佐藤さん、ウケ狙いだろうが、軽くすべってたよ(笑)。
フェス翌日の朝7時、またまた飛行機を乗り継いで日本に帰っていった(!)。

 土屋さん、佐藤さん、どうもありがとう!!後日談をぜひ聞かせてほしい。


 本番を無事に終えたパイのメンバーは、特別マネージャーのライアン&サラ、
そしてライ君の家族、友人のウッディと打ち上げをやる。
「エールハウス」というビアパブ。ボクの隣の席に、たこすが座った。

 「平馬さん、すごい偶然があったんですよ。ちょっとありえないような」

 なんだい?ボクは興味深く彼女の話し声に耳を傾けた。

 「パイのメンバー登場時に流したSEに手違いがあったでしょ?
ほんとはCDの8曲目『おてもやん』だったのに、
アホPAが『黒田節』をかけちゃった」

 そうそう。ちゃんと紙にM8と書いたのにな。ま、いいじゃないの?

 「いやいや、その黒田節が引っかかったんですよ。ワタシ的に。
この曲ね、先月亡くなったおじいちゃんの十八番。たぶん一番愛した曲だと思う。
んで、ライブ中に踊っていたアメリカ人のお爺さんがいたじゃないですか?」

 うん、いたいた。若い人に手をひかれながら。離れていたけど目立っていたよ。

 「えぇ。その方が疲れてきた気配をサラちゃんが感じとって、
気を利かせて椅子を用意してあげたらしいんですよ。
けど、そのお爺さんは一度もそこに座ることはなかった」

 それでそれで?

 「ライブ中盤に人がどばっと集まり出して席が埋まったのに、
その椅子には終わりまで誰一人座らなかったんですって。
ワタシ、亡くなったおじいちゃんが見に来たとしか思えないです。」

 うん。そうだね。それ、おじいちゃんだよ。


 たこすは目にうっすらと涙をためながら、淡々とこのエピソードを話してくれた。
不思議な偶然が2つも重なった。いや、3つ目がある。
それは、おじいちゃんが亡くなった命日。8月15日。この日はボクの誕生日だ。

 祭りとは、つまりは“そういうこと”なのである。あの世とこの世の架け橋。究極の無礼講。
おじいちゃん、安心してあの世へ行って下さい。あなたの孫は立派な「祭人」になりました!
この日は、単なるライブというだけにとどまらなかった。


 …ボクは眠気眼で歯を磨きながら、しばらく昨日という1日を反芻(はんすう)していた。
この翌日の日曜日。シカゴ滞在の最後の日。車で約1時間のところにある「ニーナ」へ。
ワンマンライブを行う。帰国ド直前。思いきり盛り上がって帰ろう。


 次号をお楽しみに。


 8日間の滞在も明日で終わり。
9月20日(日)。午後2時過ぎ。
機材を車に積みこむ。



 約1時間の移動。景色のすべてが真新しい。やっぱりここはアメリカなんだな。
途中、パーカッション(和太鼓)担当のジョンも合流。
日本人女性・早苗さんがオーナーをつとめるラウンジ「ニーナ」に着く頃、雨が降り出した。

 ここにきて初めての悪天候。今までずっと快晴つづきだったのだ。
天気の移ろいなシカゴ。一週間びっちり晴れるのは珍しいことらしい。
リハーサルを終え、お店側から食事とビールをご馳走になった。

 餃子、おでん、焼き飯、みんな無言でムシャムシャと食べている。
このまま布団一式あれば横になりたかったな(笑)。外に出て一服。
餃子の匂いが口に残る。例のデカ歯ブラシをバッグに突っ込んでおけばよかったか。


 本番は午後6時半スタート。二部構成。ジョンと永見さんが演奏できるのは8曲。
なので、たこす、ミヤウチ君、ボクの3人でアコースティックセットを組んだ。
お客さんは日本人中心。日系人、アメリカ人、そういえばスペインの女性もいた。

 一部は時間にして45分間。楽屋へ戻る。ライブ後の一服は店外で。
喫煙者はボクとミヤウチ君だけ。アメリカは禁煙/嫌煙が定着していた。
もはや室内(ライブハウスも)で吸える場所は一つもない。

 おまけにタバコ1箱が8$もする。これには驚いた。けど、いいことだと思う。
日本もここまで徹底すべき。…と言いつつ、またしても外で一服だ。
ぷかりとやっていると、ネイビーピアで踊っていたアメリカ人のお爺ちゃんが現れた!

 わざわざ来てくれたの?何やらボクに話をしてくる。
少し興奮している様子だ。新聞社の編集長(浦山さん)に通訳をお願いする。
その内容を聞いてボクは、またまた絶句してしまったのだ。

 「ワシは少し前にワイフを亡くした。今さっき見たんだ。そのワイフの霊を。」

 えーっ!!どこにいたの?そう聞くと、お爺ちゃんは25M先にあるレストランを指差す。

 「あそこの窓際のテーブル席じゃ。今からそこに行ってくるよ」

 浦山さんに手を引かれながら、ゆっくりと歩を進めていく。
ボクは視線を爺ちゃんの背中に向けたまま、短くなったタバコの火をもみ消した。
“たこすのおじいちゃん降臨”のネイビーピアで終わらなかったのだ。信じられない。

 そんなにあの世から訪れてくれる方々がいらっしゃるならば、
前代未聞、神出鬼没、カルト楽団(?)、史上初の『イタコバンド』にするか!?
意外と需要はあるかもしれない(笑)。ふつう、こんな偶然が幾つも重ならないよね?

 とにかく仏様もひっくるめて喜んでもらえたら、ボクは遙々来た甲斐があったというもの。
二部の開始。最初の5曲はアコースティックセットで歌う。
後半はバンドで。アンコールが2回もかかった。ヤ、ヤ、ヤバイ。

 もう用意していた曲はすべてやりきっている。けれど歓声は鳴り止まない。
これをシカトしたら罪である。「さよなら港」をエントリー。
後ろを見ると、ジョンも永見さんもスタンバってる。いいじゃん!やっちまえ!


 このニーナのライブはYouTubeにアップされている。ムチャクチャなアンコールも。
ふつうこれは出さない。いや、出せないだろう。けど是非見てもらいたい。
曲も何も知らなくても、“やる!”というテンションがあれば、できてしまうものだ。

 シカゴで予定していた3回のライブが終わった。いや、終わってしまった。
肉体と精神の虚脱感は日本とまったく同じ。そりゃそうだ。場所が変わっただけだもん。
夜11時。ニーナ出発。たこすのアパートには午前0時過ぎに到着。

 各自おもむろに荷物をまとめはじめた。一週間の思い出をスーツケースに詰めるように。
朝6時起床。デカ歯ブラシで歯を磨くのも、ついに最後となった。
これは日本へ持ち帰り使ってみよう…いや、やっぱやめた!

 記念品みたいで侘びしいではないか。アメリカでやるのは長年の夢だった。
確かにボクの、そしてパイのパイの「夢」は叶うことができた。
けれど夢はこの旅で終わらしたくない。一度だけでは満足できない。

 二度三度、いや、何度も味わってもいい。そしてアメリカに暮らす人たちへ、
もっとボクらの“祭り”を届けたい。ライブを見てもらいたい。
祭り魂。宴会魂。雑魚寝魂。ビール飲め!飲め!肉喰らえ!!


 初渡米。ツアーというよりは、これは異国での“合宿”だった。緊張と緩和の連続。
寝しなのバカ笑い。毎日毎日まるく囲む食卓。本番前の緊張。終わって飲むビール。
そしてあのデカ歯ブラシ。思い出だけ持ち帰ろう。歯ブラシはキッチンのゴミ箱へポイ。

 2009年9月21日(月)。午前10時50分。成田空港行きの飛行機に搭乗。
たこすが見送ってくれる。彼女には最初から最後まで世話になった。

 心から御礼を申し上げたい。ありがとう!楽しい合宿でした。
約13時間のフライト。無事帰国。また日本での生活がスタートである。新鮮な気分だ。

 帰り道。コンビニに寄り、新しい歯ブラシを買って家路へ。
そして現在、早いものでアメリカ滞在から3週間が経過した。

 ボクは、日本サイズの歯ブラシで、ゴシゴシと歯を磨く毎日を送っている。
たまにシカゴで出会った人たちを思い浮かべながら。また会おうゼ。



 さて2009年〆コラムである。


 昨年に引き続き、1年間で見た映画をテーマに、私的アカデミー賞を決めてみたい。

 本年度(12/23現在)は、映画館、レンタル、DVD購入、計61本の作品を観賞した。


 まずはその一覧を並べてみよう。



☆1月
ノーカントリー
REC
ホステージ
バーバー
ブラッドシンプル
善き人のためのソナタ
ダークナイト
☆2月
バタフライエフェクト
ディープブルー
ボーンアルティメイタム
ベンジャミンバトン◆
28日後
裸の銃を持つ男
裸の銃を持つ男Ⅱ
裸の銃を持つ男Ⅲ
28週後
ディファイアンス◆
☆3月
モーターサイクルダイヤリーズ
バベル
チェンジリング
トゥルーロマンス
☆4月
スラムドック$ミリオネア◆
20世紀少年
バーンアフターリーディング◆
モンタージュ
☆5月
2days
グラントリノ◆
☆6月
ウォンテッド
ダーティーハリー
ザ・レスラー◆
アキレスと亀
アンノウン
パーフェクトワールド
有頂天ホテル
ターミネーター4◆
☆7月
マッドドッグス
サンシャインクリーニング◆
☆8月
20世紀少年第二章
サムカインド・オブ・モンスター
ライアー
☆9月
96時間◆
キャデラックレコード◆
☆10月
サブウェイ123◆
タンポポ
ツインピークス
セブン
アメリカン・ギャングスター
パイレーツロック◆
☆11月
アンブレイカブル
パラダイス・ナウ
フェイクシティ
タカダワタル的
ディス・イズ・イット◆
イングロリアス・バスターズ◆
キャスティングディレクター
E.YAZAWA ROCK◆
お葬式
その土曜日、7時58分
☆12月
ファーゴ
パブリック・エネミー◆
フォースカインド◆



※今年公開作品は、タイトル横に「◆」印。


 劇場観賞は17本。言ってみれば中途半端な数字である。4、50本見ていたら、
また感想も違ってきたのだろうが・・これもまた縁だ。17本をそのままエントリーしよう。


 【最優秀作品賞】

「スラムドッグ$ミリオネア」

 これはもうボク的にダントツだ!実際のアカデミー賞も獲得。
映画の持つすべての要素が散りばめられていた。ダニーボイル監督の勝利といえる。

 仕事を終え、レイトショーで見たのだが、帰りの足取りがすごく軽く感じた。
つまり疲労感がすべて吹き飛んだってわけ。そんな気持ちにさせてくれた傑作である。


 【最優秀主演賞】

クリント・イーストウッド

 鬼気迫る演技。なにかこうアメリカの“罪滅ぼし”みたいなものを、
イーストウッドは自分自身で、映画という媒体を介して行っていたように思う。

 「グラントリノ」は非常に重い内容だった。余生は娯楽作品中心でいいのでは?
次は「ルーキーズ」で、アメリカからやって来た鬼コーチ役とかで・・・ス、スミマセン、冗談デス!


【最低作品賞】

 たしか去年は「リボルバー」だった。あれほどではないけれど(笑)、
「サブウェイ123」はちょっと出来が悪かった。イマイチという感じ。

 しかし酷いとまでは言わない。言えない。他の作品に、いわゆるハズレはなかったからか?
今年は豊作でしょう。物語のテーマにぶれがなかった。来年もこうあってほしい。






 1年間=計61本。つまり61通りの気分を味わったことになる。
それが映画がもたらしてくれる最大の魅力なのだ。見ないとこうはならない。
この差はデカいよぉ!時間があったら、というより、時間を作って映画館へ足を運ばせるのだ。



 2010年もまたそうやってステキな物語に巡りあおう。

 いや~映画ってホントに素晴らしいもんですね!ではまた!



1972年8月15日。ボクは生まれた。
誕生月が“8”だからか、この数字に愛着がある。



また“0”という区切りに向けて、思いを募らせたりするのだ。
自分の年齢が10、20、30、40代にさし掛かる手前の時である。
今年で38才。あと2年でヨンジュウ。一般的に完全無欠のオヤジといえる。


8才。ボクは一刻も早く10才になりたかった。とにかく早く。
小学校の6年間は、どうしようもないくらい時間の流れを遅く感じていた。
“子供ながらに”と、簡単に言いたはくない。あの時代は退屈の極みである。不毛だ。


18才。高校3年生。10年前とは真逆。時間が止まればいいのにと思っていた。
あっという間に高校生の3年は終わった。音楽に目覚めたのが1番デカかった。
過剰な期待を胸に上京し、思いっきり現実の壁にぶち当たったのもこの頃だ。


それから10年間は小さい山の上り下り。困ったのはそのアップダウンが急坂だったこと。
28才。ボクは30代をどう生きていくかという気持ちになっていた。
ところが、20代前半の傍若無人生活の代償からなかなか抜け出すことができない。




借金である。消費者金融から百数十万円の借り入れがあったのだ。
これを完済するのに10年以上を要した。毎月利息だけ払いつづけるしかない状態。
金なんかすぐ返せると思ったのが大間違い。だが、人には一切口外することはなかった。

惨めな気持ちだけにはなりたくなかったからだ。完済した時、ボクは1人で祝杯をあげたっけ。
まぁそれはどうでもいい。新しい事をするしかない。そう思ったのは28才である。
翌年。某ライブハウス。数年ぶりにミヤウチ君と遭遇したことで、より現実味が増した。



30才直前。ザ・パイのパイ(パイのパイコンバート)をスタートさせる。
しかし、バンドの醍醐味を噛みしめつつも、ボクに降りかかる試練は途切れることはなかった。
肺塞栓症という病を患い、道端で意識喪失。入院。その3年後の冬、今度は交通事故で顔面骨折。

入退院を繰り返すことに。カムバックも危ぶまれた時期も、わずかながらあった。
しかし、パイは休止することなく進む。ボク抜きで活動してくれたのだ。
当時のメンバーには頭が下がる。いや、むしろボクがいない状況を楽しんでいたようにも・・・(笑)。




とにかく変わったのはその時代にある「山」だ。形状、起伏、環境である。
若かりし時分の山とは様相が変化した。アップダウンも緩やかになったと思う。
あの幾つもの小山は少しずつ統合され、大きなものになっていったのだ。

不可抗力的に暮らしも激変した。なにせ都内から、実家のある伊東へ仕事を移したのだ。
月に2、3回の週末を東京で過ごす。完全な2重生活ってやつ。
それをまたボクは楽しんでいる。いつまでつづくのかわからない危うさはあるけれど。




借金は消えたが、世の同年代の人たちとは比べものにならないほど不安定だと思う。
しかし、自分のココロが安定というものを最優先にしていない。
もはや最近になると、何が安定で、どんなことが不安定なのかわからなくなってきている。

むしろ大金を持っていないことをよしと思っているのだ。
タイガー・ウッズをみよ!夜のダブルボギー。いや、トリプルボギーか?
だから家庭が“池ポチャ”になったろ。ざまあみろである。

変な儲け話で大損したり、保証人になって地獄をみているのは、みんな金持ちではないか。
ギャンブル?夜な夜な盛り場に繰り出す?休日はゴルフ三昧?ボクは何も興味がない。
かといってストイックとも違う。欲はある。ただ、欲の質量が人と違っているだけなんだろう。




さて、例の「ヨンジュウ問題」である。

この年代になれば、過去にない深い悲しみも味わうことになるだろう。
死に別れもあるかもしれない。自分がよかれと思っていたことも、そっぽを向かれたり。
あるいは、想像しえない出来事や展開が巻き起こることだって、きっとあるはずだ。

そんな時、オロオロと狼狽したくない。感性が信じられなくなるのもイヤだ。
ゴルフはやらないけれど、あえて喩えていうならば、“パー”で十分。
ホールインワンだけを狙って生きるのが、男の人生だとは思わないのである。

金なんかほどほど稼げれば満足なんだ。宴会と格闘技観戦ができればいい。
音楽で一攫千金を狙うマネだけはしたくはない。それをやったら、自分の音楽ができなくなる。
タイガー・ウッズを引き合いに出して申し訳なかったが、寅年だから許してほしい。




何はともあれ、38才になるこの2010年。
虎視眈々。「8」は末広がりの意味を持つ。

縁起よし!
景気よく!
笑いとばせ!

“一日一笑”の精神で、ボクはボクの欲求にこたえていくだろう。



そう。高貴な俗物としてね。



 2010年・春。ボクにとって大きな変化がおとずれた。


 まず近眼を治してしまった。レーシック手術である。
年々視力が低下。ついにはあの一番上の「C」マークが見えなくなってしまう。0,07。
ヤバい。職場近くに開院した眼科の先生が、レーシックの執刀医だったのだ。

 「品川近視クリニック」の職員割引券を発行していただく。
7万円引き。ありがたい。ま、そんな偶然も重なり手術に踏み切ったのである。
事前検査は12項目。およそ3時間に及んだ。ボクは視野に問題アリ。

 特別な検査がプラスされる。ここまできて手術不可はごめんだ。
最終段階の問診で、ようやくゴーサインが出た。その5日後、いよいよ手術となった。
整髪料、お化粧は厳禁といわれているのに、ワックスでツンツンと髪を逆立ていたバカ男。

 それと、交尾に失敗した老パンダのようなブス女もいた。オペ直前の待機室。
こいつらホントにマヌケだよ。視力の前に脳みそをなんとかしろって。
「荻野さん、これ脱いでいただけますか?」看護士さんがボクに言ってくる。

 あっ!そうか!パーカーは禁止だったんだ。仰向けの姿勢でオペは行われる。
フードの厚みが首のすわりを悪くし、固定の妨げになってしまうからだ。
なんだ、オレもツンツンとパンダと同類ではないか。控え室に戻りパーカーを脱ぐ。

 なんということだ!Tシャツ一枚の常夏姿はボクひとり。
しかもビル・ワイマンTである。いざ手術室へ。ものすごい圧力で目玉が固定。
麻酔の点眼をつけられた。まさに「時計仕掛けのオレンジ」の世界。

 オペはあっという間に終了。なぜか性格まで矯正された気分になる。
痛かったのはこの日と翌日の2日間だけ。なんと視力は左右それぞれ1.5まで回復した。
裸眼生活スタート。いまだに風呂に入る前、メガネを外す仕草をしてしまうが。

 そんなわけで、レンズやコンタクト越しではなく、“生眼”でいろんなものを見ていこう。
なかなか拝めないようなものを・・・あ、キミ今、いやらしい想像したろ?
それはそれで図星かもしれないが(笑)、全身ミステリアスな人物が来日したのだ!


 その人の名は、「ボブ・ディラン」である。9年ぶりの日本公演。
しかも、ゼップ大阪、ゼップ名古屋、ゼップ東京、すべて2000人規模のホール。
チケット料金は¥12000。安くはないが行くしかない。

 ディランフリークのジンさんにチケット確保してもらう。
3月26日。ゼップ東京。A1303番。どんより曇った金曜日。
新橋から「ゆりかもめ」に乗る。青海駅を出ると、待ち合わせたかのようにジンさんがいた。

 双眼鏡を貸してくれる。グッズ売り場へ。記念だ。Tシャツでも買ってこよう。
テントの中に飾られたグッズをチェック。こりゃ話にならん。
デザインがしみったれている。生地も粗悪品とみた。3回洗ったらテロンテロンだろう。

 仕方ない。そこに、「国内盤CDお買い上げの方にポスタープレゼント!」なる貼り紙を見る。
これにつられ、買いそびれていたアルバム『Together Through Life』を購入。
さて、ここからある種の地獄がスタート。まず整理番号の列にならんだ。

 オープンまで30分。会場へ入り、ステージ左側前方をキープ。
前から6、7列目くらいの場所。スタートまで60分。立ちっぱなしはキツい。
午後7時5分。照明が落とされ、“本物”のボブ・ディランが現れた。


 澱んだ色の後光がさしている。人間にはみえない。月の破片のようだ。
驚いたのは、コンサートたる常識的な演出が一切排除されていたこと。
まず照明。主役を追うピンスポットなし。ライトの色は白とオレンジのみ。暗いのだ。

 ディランはしゃべらない。ハロー、サンキュー、グッドナイト、曲名も言わない。
アンコールの時にメンバー紹介はしていた。たったそれだけ。
ギターを弾いたのはなんと1曲のみ。あとはキーボードを弾きながら歌うスタイル。

 17曲/2時間。毎日毎日、それ以上でも以下でもない質量。
しかし曲はガンガン変えていくのがディランの特徴である。
といっても、アルバム音源通りにはやらない。必ずアレンジを加えてあるのだ。

 粉々に。粉砕だ。出だしでわかる客はほとんどいない。
サビになって、「あ!あの曲だ!」と気づく。この日、初めて『風に吹かれて』が演奏された。
とにかくこんなアーティストは世界中さがしても、どこにも存在しないだろう。

 とにかく謎めいている。どこを見ているのか?笑っているのか?
いや、もしかしたら怒っているかもしれない。楽しんでいるようにも、退屈そうにもみえる。
ん?あんた偽者じゃないの!?ボクは120分間、ディランだけを凝視し、そして考えつづけた。

 単なるコンサートなのに。幻覚を見た気分である。午後9時終演。
外は冷たい雨が降っていた。合計3時間半、立ちっぱなしから解放だ。
動く両下肢に血が巡るのがはっきりわかった。家に到着。さっき買ったCDをかける。

 ババーン!
 ババーン!

 目玉の奥に戦慄が走った。それからボクは人生初の「知恵熱」にうなされることになったわけである。丸3日間。
歌声と音。それだけ。あの日のコンサートはそれしかなかったのだ。
だが、これってきわめて自然な状態でしょう。だってボブは歌手なのだから。

 しかし自然になればなるほど“謎めいて”みえるのはどうしてなのだろう?
それは、もしかしたらボク自身が不自然な生き物になってしまったからかもしれない。

 あんな風にナチュラルに生きていけたらいいなと思う。
いや待て。“あんな風”になるまで、どれほど苦悩の積み重ねがあったのだろうか?

 手術してすぐ手に入れられる、そんな簡単なものではなさそうだ。
今日も街に、季節外れの冷たい風が強く強く吹いていた・・。



 ジャパンツアー最終日、予定外のアンコールに応えただと!?
なんだ、ディランも人の子ではないか!!



【レーシック手術】

高精度の医療用レーザーで角膜の屈折率を矯正し、近視、遠視、乱視を治療するもの。
視力1.0以上に回復する割合は、98%。高額だった料金も年々値下がり傾向。
20万円前後で治療が受けられるようになった。オペの時間はわずか5分程度。


【ボブ・ディラン】

1941年5月24日アメリカ/ミネソタ生まれ。1962年デビュー。
約半世紀、多大なる影響を人々に与えつづけているシンガー。
グラミー、アカデミー、ピューリッツァーを受賞。ロックの殿堂入りも果たしている。
また詩人としてノーベル文学賞にノミネートされたこともある。



 2010年はロクな1年間にならないだろう。



 去年の秋、アメリカから帰国したボクは密かにそう思っていた。
その予感というか、予想は残念ながら見事に当たっている。
なにがどうでという話はナシ。ほとんど公にできないからだ。

 それに暗い話題は、読む人のココロに浸食しそうな気がしてならない。
それならばこの「ダークイヤー」をどう凌いでいるかという話の方がいいと思うのだ。
いつまでも自己破滅型人間をきどっていたってしょうがない。


 今年の1月。3つあった新年会の席。本来ならばそこで、新年の抱負を語り合うもの。
しかしボクは「ヤバい1年間になるだろう」と気勢をそぐ発言をする。
のっていたボクの09年を知る人たちは、一様にけげんそうな顔をしていた。

 とにかくまずはそうやって思っていることを理路整然と口に出すことからスタートだ。
真冬に春支度。支度といっても衣替えのことではない。それは、自分にとっての祭り事である。
春になるまでジッとしていよう。暖かくなったら連月で新しい展開を示してやる。


 自分が満たされた上で、かつ人々が喜ぶことってなんだろう?
それはやはりステージに立つことだ。なにもパイで歌うことだけがすべてじゃない。
ドラムを叩く事だってできる。あと他にないのか?ピン!ときた。

 得意分野を“喋る”ことだ。プロレス&格闘技話ならば面白くできる。
しかし、これには強力かつ強烈な人物をメインに置く必要があった。
ターザン山本!さんを伊東に呼んでしまおう。即快諾してくれた。5月に決まる。


 3月20日。春分の日。春だ、春。この日を外すわけにはいかない。
まずのっけはパイから。ワンマン2連発。伊東市宇佐美「デリカフェ」を押さえる。
4月11日。高田馬場「四ツ谷天窓」。これは年末にブッキング済みだ。

 宇佐美でチケット代金が発生する公演は初のこと。やはり一番気になったのは客入り。
フタを開けたら、座席が足りなくなるほど超満員となっていた。
天窓の企画も、コマーシャル期間が短いわりにはまずまずの入りだったように思う。


 そして5月12日。伊東市にある「音楽的酒家/クラップス」でトークライブを開催。
「談末魔サロン」と名付ける。このタイトルを山本さんに伝えたら、
手をたたいて喜んでいた。本番は2時間ぶっ通し。トークは途切れることなく終了。

 何ひとつ打合わせをしていなかったが、やはり昭和プロレスはネタ満載である。
集まったファンも、それはそれはコアなフリークたちだった。
客席は薄灯りだったが、みんなのニンマリ顔を確認できた。


 やっぱりプロレスのことをあれこれ話すのは楽しいもの。
山本さんもそれについては同じ感想を持っていた。だが、しかし!
この日から1ヶ月後、「『金権編集長』ザンゲ録」という物騒な本が発売される。

 いわゆる暴露本。山本さんは業界隆盛に貢献したマスコミの重要人物だったが、
過激な誌面作りのおかげで逆に追放されてしまう。いや、あれは抹殺といえるだろう。
それでも先般発売されていた、あまたの暴露本に対し、真っ向反論していたのが山本さんだった。

 とうとうこの手の本を出したのか。少し複雑な気持ちになった。
しかしこの「金権編集長~」は、ふつうに楽しく読めてしまう。賛否両論あるだろうが・・。


 そして活動的になった春の〆はドラマーとしてライブ。
6月12日。場所は川崎市元住吉「パワーズ2」である。
ビッグラック&フボ。ボクはとにかくバックに徹することに決めていた。

 今となってはドラムを叩くことも少なくなった。けれどそれは必然だったように思う。
じっくり噛みしめるように演奏そのものを楽しむことができた。
いつもとはまったく違う春を過ごしたことには違いない。だから大成功といえるだろう。


 おもしろいもので、変わったことをすると、通常にないタイプの出演依頼があったりする。
6月27日。北越谷で行われた結婚披露宴でのショータイムをやってくれというのだ。
新郎の親父さんが岩槻市でやったパイのライブを偶然見ていたのがきっかけ。

 もう3年前のこと。その仕切りの人が、HP私書箱を利用して連絡をくれた。
まさにガチである。油断も隙もないとはこのことだ。ありがたい。





 唄う
 喋る
 叩く


 この3つの字には、ある共通点がある。それはすべて「口」が付いていることだ。
口は災いのもと、口先三寸、口惜しい、などなど、口は悪い意味で使われることが多い。
冗談じゃない。この春、仮に何もせずに寝ていただけだったら・・・

 想像しただけで凹んでしまうよ。唄い、喋り、叩いたことで、
2010年のボクの座標系に変化が訪れたと思っている。

 虎視眈々⇔才気煥発。あるいは傍若無人も入るか?そこを往来する。
このコントロールさえできれば、よくいわれる“厄”みたいなものからは必ず脱却できるはずだ。


 できることなら、自分の気運は自分で修正していきたいもん。

 そう思わない??拝み倒すにゃまだまだ早いっしょ!!


 “こだわり”をすててこそ。

 よく聞く言葉だ。


 辞書をひいてみた(デイリーコンサイス国語辞典)。


「こだわる=必要以上に気にする/細かいことに自分の好みを主張する」

 と書いてあった。まぁ、必要以上に気にすることはないと思うけれど。
好みを主張するのは賛成。だからボク的には、こだわりは持った方がいいとなる。

 こだわりを持たないことが“こだわり”になると、やがて逆に窮屈な思いをするだろう。
精神の混乱を招きかねない。色つきなものを、白色に厚塗りすればやがて純白になる。

 ところがそのキャンパスは、どんな色を塗りたくっても透明になることは永遠にない。
無色透明には清らかなイメージがあるが、そんなもん無味乾燥、無味無臭の世界だって。


 自分色に塗ったり、染めたり、あるいは脚色できればいいんじゃない?
 空や海が真っ青とは限らないし、森や林だって緑一色ではないのだ。

 自分のキャンパスは世界で唯ひとつ。もちろん人によって大小はある。
 生きていれば変な色をぶっかけられたり、引き裂かれる事もあるでしょう。

 そんな危機を救ってくれるものこそ、意外と個が持つ「こだわり」なのかもしれない。



 ・・・今まさにパッ!と思い浮かんだ自分のこだわりについて話す。
実にどうでもいい、まったく感心も関心もされないだろうな。
しかし1番最初に頭の中に現れてしまったのだから仕方がない。


 えっとボクは、上着のボタンやジッパーが閉じていることにこだわっている。
つまり開いている状態がイヤなわけ。はだけているなんてもってのほか。
よくいるじゃない?六本木あたりに。シャツの第3ボタンまで開けている男が。

 セクシーさを醸し出したいのだろうが、ボクはあれを見ると思わずボタンに手をかけたくなる。
スーツを着た時も、着席している時意外は絶対にボタンをつける。
見た目よりも着心地重視。ジャケットの裾がバタバタしているのが許せないのだ。


 ライブの時なんて着物や浴衣の襟を無意識に直しているみたい。
映像をチェックするとそれがよくわかった。やはり、てろ~んがダメなのだろう。
何度もそんなシーンがある。これはもうこだわりというものを超えて、ボクの中での生理なのかもしれない。



 歌うことへのこだわりはあるのだろうか?


 それなりには持っている。2つほどピックアップしてみよう。
まずは、「上手っぽく」歌わないこと。なるべく自然に。
それを際立たせるために、まったくもって不自然な歌い方もする箇所を作っている。

 「祭祭祭祭祭」のM1、M2、M4を聴いてもらえばわかると思う。
ちなみに素で歌っているのはM4の「帰り道」である。
最初の3~4年は何も考えていなかった。いや、そんな余裕がなかったといった方が正しい。

 あともう1つは手の動きかな。肩、上腕、前腕、掌、そして指先。
パイはライブになるとステージ上に7、8人が上がっている大所帯。
ライブハウスや野外特設ステージだと、動きたくても動けない。

 狭いところは全員乗らないこともある。今は無き東村山「マル」。あの時、
伝歩(当時のG)は客席で弾いた。彼はまるで客のような感じで座っていたっけ(笑)。
とにかく動けないない状況でも手ぐらいは挙げられる。そこに着目したというわけだ。

 今はもう特別に神経を行き届かせなくても、指や手の動きはとれるようになった。
ま、ココロのこだわりはかなりある方だと思う。どこのどんな場所でもライブはしたい。
老若男女、国籍不問、健常者、障害者、病人、ケガ人、受刑者、etc。

 誰がお客でもかまわないのだ。この意識だけは結成前から変わらず持ち続けている。
だってさ、せっかくこの世に生まれてきたわけで。たくさんの人と会いたいし、
いろんな場所へ行かないと何かもったいないじゃないの!!

 出ずっぱりはどうかと思うけど、家の中での楽しみには限界がある。
なにせ天井付きだから。となると、やはり外へ出るべきでしょう。



 辞書にあった「こだわり=細かいところに自分の好みを主張する」は、
たくさん人と会えと言っているようなもの。人がいなければ主張のしようがないもん。
“好み”って好きになっている状態。だからとってもポジティブである。

 イヤだ!イヤ!イヤ!
とわめいて暮らすより、
 イイよ!イイ!イイ!
と笑っている方にボクは“こだわり”続けていたいと思う。
 毎年恒例の私的特選。

 映画のある暮らしと、ない暮らし。それは当然あった方がいい。
なぜなら人間は気分を軸に生きているから。

 哲学、思想、理念を基にしている奴なんか絶対にいない。
いてもそんなのはデタラメだ。インチキ野郎だ。


 毎日毎日繰り返す日常。そうなると人は感情の幅が狭小する。
やがてそれは無機質・無関心を生み、表情の無い能面人間を作り出す。

 映画は現代人の栄養剤。ビタミンみたいなものか。
そこで感じた様々が生活に潤いを与えてくれる。だからボクは時間をこじ開けてでも映画館へ行くのだ。


 さて、まずはボクが2010年に見た作品を紹介したい。


☆1月
アナーキー
ヒットマン
レオン
今度は愛妻家◆
オーシャンズ◆

☆2月
ダージリン急行
インビクタス◆
用心棒
おとうと◆
ゴッドファーザー
ゴッドファーザーⅡ
ホットファズ

☆3月
3時10分、決断のとき
アイム ノットゼア
ハートロッカー◆

☆4月
マルサの女2
月に囚われた男◆
息もできない◆

☆5月
アンヴィル
第9地区◆
目撃
96時間
キッズリターン
母なる証明
HANA―BI
地獄の黙示録

☆6月
アウトレイジ◆
ドールズ
3ー4x10月

☆7月
Mr.インクレディブル
トイストーリー2
トイストーリー3◆
ハウルの動く城
ソナチネ
ハウエルズ家のちょっとおかしな葬式
いのちの食べかた
0時34分
闇の列車、光の旅◆
アダプテーション

☆8月
菊次郎の夏
ハングオーバー◆
ビッグリボウスキ
最終絶叫計画4
ブラザー
スラムドッグミリオネア
クローバーズフィールド
パラノーマル・アクティビティ
4ヵ月、3週と2日
カジノ
インセプション◆
特攻野郎Aチーム◆

☆9月
バッドルーテナント
あの日欲望の大地で
余命85分
瞳の奥の秘密◆
☆10月
キング・オブ・コメディ
ナイト&デイ◆
レクイエム
16ブロック
エクスペンダブルズ◆
カサンドラズ・ドリーム
ザ・ロイヤルテネンバウムズ

☆11月
ドアーズ/まぼろしの世界◆
湖のほとりで
空気人形
クロッシング◆
パリより愛をこめて

☆12月
極悪レミー◆
パルプフィクション
バーンアフターリーディング
ボーダー
ヒックとドラゴン


計73タイトル。
そのうち劇場観賞(◆)は20本だった。



【最優秀作品賞】

◆ハングオーバー

◆極悪レミー

 今年はもうこの2本につきる。同点。1位と2位に分けることはできない。
「ハングオーバー」はコメディ映画。日本語にすると“二日酔い”。

 一方の「極悪レミー」はモーターヘッド/レミー・キルミスターを追ったドキュメント作品。
どちらもまともな内容ではない。はっきりいって変態である。

 感動巨編なんて煽り言葉は絶対に使えないだろう(笑)。
けれどムチャクチャ面白かった。ボクはひたすら感動しました!



【最優秀俳優賞】


 石橋 蓮司


 「今度は愛妻家」でのオカマ役、「アウトレイジ」は情けない弱小暴力団の組長役を好演。
強面の俳優さんは逆にコミカルな役どころがはまるもの。

 「アウトレイジ」の北野武監督の作品は、どれも最高のキャスティングだ。
ちなみに、最低最悪のヤクザ役を北村総一郎と三浦友和が演じていた。

 ボクは石橋蓮司さんの周章狼狽する演技が大好きになった。



【最低作品賞】


 インセプション


 レオナルド・デカプリオと渡辺謙の共演が話題になった作品。
しかしボクは眠くて眠くて。セリフが多い近未来CG映画なんてね~。
説明的な前半部分で睡魔に襲われてしまった。取説映画です、あれは。




 繰り返すが、これはあくまでも“私的”なものである。
ボクが駄作だと思っていても、最高だ!」っていう人だっているはず。
それにケチをつけるつもりは毛頭ない。人それぞれでいい。

 ついでにもっと言わせてもらうと、韓国映画の陰鬱さに辟易!
「息もできない」にもムカついていた。こいつら食いもん悪いんじゃねぇかと。
残虐さにも可愛げってものがあると思うのだけど。でしょ?



 っつうわけで、憎まれ口はこのへんで。

 2011年も素敵な映画にめぐり逢いたいものである!

 2011年1月3日。午前11:20羽田発の飛行機に搭乗した。


 行き先は新千歳空港。実に21年ぶりに北海道の地を踏む。
前回は高校2年生の時。10月上旬。3泊4日の修学旅行だった。

 函館、小樽、札幌。

 名所巡りをたくさんしたけれど、くだらない事しか覚えていない。
缶ジュースを空にした後、内緒で買った十勝ワインを入れて酒盛りしたこと。
ふらふらしていてクラスの写真撮影に間に合わなかったこと。

 寝台列車の往復で、霊感の強い女友達が思いっきり“見た”と騒いでいたこと。
札幌駅がとてつもなく暗かったこと。夜の自由時間に吸ったタバコ。
バスガイドに発情していた大塚和彦などなど。ろくな思い出はない。


 しかし1つだけものすごく鮮明に記憶している場所がある。
それは『小樽運河』だ。すごく雰囲気がよくて街並みもよかった。
ここは大人になって再び訪れてみよう。なぜかそう思ったのだ。

 バスの中でポコチンふくらましてる奴と一緒ではロマンもなにもありゃしねぇ。
しかし38才になって1人でここに来るとは思わなんだ!
小樽は旅行の3日目にあたる1月5日に組み入れた。札幌からJR線で35分。


 あの時と大きく違うのは、めちゃくちゃ寒いってこと。
10月秋と1月冬だから あたりまえか。ここまで細雪だったのにこの日は大雪。
横殴りの雪である。温暖な伊豆で育った人間として、雪深いエリアに興味津々。

 車窓から見える海岸沿いは人口密度が低い。ホントにポツンと家があって、
しばらくするとまた雪で覆われた家が現れる。中には1人暮らしのお宅もあるだろう。
よほどタフな肉体と精神を持ち合わせていないとここには住めないよ。

 午後1時45分、小樽到着。

 先ずは腹ごしらえ。地元でも人気のレストラン「海猫屋」へ。駅前通りを下る。
4つ目の信号を左。歩道は所々カチンカチンに凍っていた。
約15分歩いたところで店に到着。げっ!ドアに「準備中」のプレートが・・。

 恐る恐る顔を出す。もう終わりですか?なんとわざとらしい。
ダメもと。そうしたらマスターとおぼしき男性が「いいよ、どうぞ」と言ってくれた。
蟹のスパゲティとウニのキッシュをオーダー。これだけはどうしても食べたかったのだ。


 茹でたてアルデンテのパスタに蟹が山盛り。まずいわけないよ。
キッシュも風味豊かなオードブルだった。大満足。え~ホント?
あの村松友視さんがここを舞台にした小説を出版しているんだって!?

 「海猫屋の客」というタイトルね。機会があったら読んでみよう。
お会計(¥2300)をすませて外に出る。うわっ!吹雪いているではないか!
そんな中、いよいよ高校の時以来の『小樽運河』を目指す。

 あった!あった!

 階段を降りて当時あるいた道へ。とうとうというか、やっと来たかっていう感じ。
なんか感慨もひとしお。まぁそれなりにいろいろあったわけでね。
めくれた地図の上をドカドカと歩いてきたような21年間。

 足をとられたり、時には道を踏み外したりもした。けれどここまで生き延びてきた。
さてこの長い年月の間、高校時代となにも変わらないことなどあるのだろうか?
そう思った瞬間、頭にドドン!と浮かんだものがある。

 それは「おんがく」という文字だった。音楽に対する気持ちは何もブレていない。
やる方も聴く方もだ。修学旅行の時にだってドラムの練習してたもん。
ちゃんとスティックを持参したしね。ちょうどストーンズにはまった時期かな。


 この旅中ずっとジャズばかりを聴いていた。雪が雑音を消してくれる。
たとえヘッドホンでもサウンドがすごくクリアになるんだ。
視覚的にも雪景色という単色の世界が、繊細な音楽にもってこい。

 運河を抜けて通りに入る。「北一ガラス」の喫茶室へ。
あ!ピアノの生演奏やってるぞ。ラッキー!室内はろうそくの灯火。
なつかしいやら心地よいやら。片手に小樽地ビール。なんとも贅沢な時間を過ごさせてもらった。

 夕方5時。外はもう暗く寒い。

 ボチボチ帰るか。ここからだと小樽駅より手前の南小樽駅の方が近い。
大した距離ではないが坂道である。失敗したな~。ま、いっか。
なれない道。ようやく履きなじんだブーツが雪の中に沈みこむ。

 果たして次回ここに来るのはいつになるのだろう?
仮にもまた“21年後”だとしたら・・・
あらら。59才だってよ!還暦ド直前ではないか!!

 ヘタしたらあの世かも(笑)。そう思ったら近い内に来るしかない。
1人でもかまわないけれど、次はにぎやかな旅行にしてもいい。
いや待て、美人さんと2人きりで極寒地で濃密な・・・とバカな妄想を繰り広げたとたんドタッ!

 ボクは凍りついた路面に足を滑らせ尻もちをついてしまったのだ。
おかげで右側のズボンは雪まみれ。手袋も真っ白になる。
これってなんだか天の戒めに思えた。「オマエ地に足がついてないぞ!」とな。


 フフフ、仰せのとおり!

 オレはまだしばらくこんな風にふわふわ歩いていくんだよ!!



 どうもね。



 少年時代にうけた衝撃って忘れられない。


 自分は幸福だったのか?あるいは不幸だったのか?
それは過去の“衝撃”がいったい何だったのかで決まるといっていい。
暴力、性的虐待を受けた人。大人社会の闇をかいま見た人。

 血なまぐさい事件に巻き込まれた人。天災や事故もそうだ。
大人になろうとそれがトラウマとして残り、人格形成に大きな影響をあたえることになる。
克服できたら笑い話になるが、そうでない人は気の毒という以外に言葉もない。


 断言しよう。

 ボクは120%幸せなガキでした。


 好き勝手に毎日を過ごせた。思う事、興味のある事に対して即行動にうつしていたように思う。
やりたくない事はたとえ大人から叱責されようとやらなかった。
カッコよく聞こえるだろうけど、たんなるワガママである。

 ボクは人と“つかず離れず”といった人間関係を好む。
それを維持できるのは、自分のこのダメな性格の産物だと思っている。
ボク以上にワガママな人間に出会ったことがないもん。だからみんなイイ人にみえちゃう。

 べったりの関係になったら、間違いなくワガママがにょっきりと顔を出す。
だから必要以上に“距離”を縮めないでおくのだ。これって人づきあいでスゴく大切なこと。
まぁ幼少期くらいは親とイヤでも一緒にいるわけだが・・・


 「ふつうの人だったら育児ノイローゼになっていたわね」


 ボクのキチガイのようなワガママっぷり話を母はよく披露する。
今、子育てに奮闘している妹や義妹にだ。私は大変だったのよ的な。
申し訳ない気持ちもあるけれど、あんたもそうとうなもんだよ。

 「アタシ名字変わるのイヤッ!」、だから親父は婿入りした。
母は間違いなくファザコンである。母の父。ボクにとって祖父だ。
ボクが生まれて最初に衝撃を与えてくれた人物は祖父。つまり、おじいちゃんである。



 沼津、熱海、伊東、富士、静岡に映画館を経営していた。
4才の時に「JAWS」を見てしばらく海に入れなくなったり、
「スターウォーズ」を連続12回見続けたのは6才の頃。

 ホラー映画は怖いから映写室の小窓から覗き見たりね。
まさにリアルニューシネマパラダイスである。2人で絵を習いに行ったなぁ。
先生は一番最初、自分の一番好きなものをテーマに描けと言った。

 ボク(当時5才)は、伊豆急行線の電車。おじいちゃんはなんと女性の絵だった。
57才。ガチにもほどがある。1年通ったが2人とも飽きてやめたけど。
それと、車のラジオから流れる歌1つにも「歌詞が女ウケする」と分析していたっけ。

 そうやってボクにモノを正面からだけでなく、あらゆる角度から見る術を教えてくれたのだ。
だから小学生以降、答えのない科目に威力を発揮する。しかし理数系は話にならなかった。
高二からはじめたドラム。毎日1時間の練習。もちろん近所の方々のご理解をえて。

 ある程度サマになってきたかなって頃、おじいちゃんは「よくなってきた」と褒めてくれた。
一昨年前。海外公演の出国前夜。「美は乱調にあり」と一筆添えられた祝儀を渡してくれた。
家の座敷に掛け軸がさがっている。おじいちゃんの書。これが実に“らしい”言葉なのだ。


「爺さんが呑み 父が呑み 我は呑まず人生に酔う」


 現在90才(大正9年生まれ)。老人施設に入所している。
つい最近、前立腺と膀胱のガンという事実を突きつけられた。
高齢だから何があっても不思議ではない。さぞ気落ちしたことだろうと心配したが・・・

 しかし本人は狼狽することなく、まるで他人事のようにしていたらしいのだ。
神妙なのはむしろ医師の方。事細かく治療方針の説明を延々とした。
それを受けたおじいちゃんの返答は、「好きにやって下さい」だったという。

 病院を出てすぐ、「腹減った!とにかく肉が食いたい!」
これには付添いの母も呆れたようだ。どんな状況下でも食欲が軸になっているのだから。


 人生に酔うってことはとどのつまり究極の自己愛だろう。


 本物のナルシストは自分を客観的にみることができている人。
ワガママとは違う。そしてある種の“謎”を残すものだ。
もしかしたらおじいちゃんは、はてしなく落胆しているかもしれない。

 しかしガン告知をよそに、肉をむさぼる方が自分らしいと思ったんじゃないのか?
すでに死に対して決着がついているか?だからあんなに呑気でいられるの??
いや、じっさい猛烈な空腹感に襲われていたのかもしれない(笑)。


 こればかりはわからない・・・
本人にそれを訊くのは野暮ってもんよ。
ボクは謎は謎のままでいいと思っている。



『衝撃とは“きっかけ”を生み出す元素である』


アントニオ猪木 忌野清志郎


 この両巨頭は小~中学生のボクに多大な衝撃を与えてくれた人物。
しかし、さらに遡ってみたら猪木も清志郎もないんだよな。
人ひとりに“個”という積み木があるならば、ボクの一番初めを並べ立てたのは・・

 荻野庄司である。

 我が祖父よ、おじいちゃん、生きているうちに言っておこう!

 ボクがこんなに能天気にいられるのは、すべてあなたのおかげです。


 ありがとう。
 感謝。感謝。


 あなたが何時あの世へ旅立とうとも、ボクは困らないように準備をしておきます。

 ただほんのちょっとでかまわない。もう少しだけボクをかまっていて下さい。
 不謹慎ですが・・・


 わたくしシリアスな状況なほど些細な事で笑いたくなってしまうクチでしてね。
けれど一寸の余地もなく悲しみに支配されていたとしたら?
んん、やはり笑うなんてことはあるまい。と、今までそう思っていた。


 しかしどうもこの自信が大きく揺らいでいる。



 たとえば「弔い」の席だと仮定しよう。


 お葬式。荘厳な袈裟を身にまとった坊さんのお経が終わる。
棺の中に眠る故人へ、たくさん花々がたむけられた。
すすり泣く声と嗚咽が斎場に響く。そしていよいよ蓋が置かれ釘が打たれる時が・・・

 これが最後の対面になったその時!
遺影のある祭壇から巨大なスクリーンがおりてくるではないか。

 そこに映し出されたのは・・誰?あ~っ!モノマネ芸人の『コロッケ』じゃん!
すぐさま持ちネタの数々が披露される。そして早送り・野口五郎がはじまった!


 皆さんどう?


 ボクはたとえ喪主を務めなければならない葬儀であったとしても絶対に笑う。
だから寺や斎場にテレビを設置してはいけないのかもしれない。
だってただの五郎じゃねぇ。高速だぜ。あれはもはや芸術の領域に達していると思うのだ。



 むかし組んでいたバンドのメンバーの話。


 彼は精神が常に不安定で、よりどころは音楽よりも付き合っていた彼女だった。
なんだかんだいってオンナ頼りか?そう思っていた時もある。
傍若無人なバンド活動。荒んだ私生活。破滅への道。まさに彼はその象徴だった。

 しかしながらオンナは男が弱っている時に限って三行半を叩きつけたりするんだよな。
よりによってこの時期にか!?である。そりゃないよって。
さぁ大変だぞと。酒に溺れてグズグズになるにきまってると。

 傷心の末に自ら……ま、まさか。しかしチラリと頭によぎってしまったのは事実。
それから3~4日経過したが動きナシ。1週間ほど経過。ミーティングで会う日が来た。
居酒屋へ。靴を脱いで座敷にあがると、ナント彼は笑顔で手を振っているではないか。

 復縁したな。一瞬でそう察する。まずはバンドのことよりオンナの話題からスタート。
「元気そうじゃないですか。ヨリ戻したの?」ボクは口火を切った。
「そんな事あるわけねぇだろ!オレはもうどうでもよくなっちまったんだよ」

 立ち直りが早すぎやしないか?どうもおかしいぞ。
と、彼は矢継ぎ早に言葉を重ねはじめた。


「そりゃおまえ凹んで2、3日は何も手がつけられなくなっちまったさ」

―でしょうね。いきなりでしたから。

「朝から酒呑んで昼には泥酔しててよ。独りきりがこわくてTVだけつけてたんだ」

―起きがけの飲酒は精神破綻のはじまりですよ。

「けどな、『ごきげんよう』に小松政夫が出ててさ、これが可笑しくてよ~」

―えっ!まさか小松の親分きっかけで立ち直ったわけ!?

「そう」


 30分間、往年のギャグのオンパレードだったというのだ。
そして〆に『シラケ鳥』をやってくれたと(笑)。そりゃ笑いますって。
彼の落ち込んだ気持ちはシラケ鳥と共に南の空へ飛んでいったのだ。


 まさか小松政夫に救われるとは!けれどこれ“あり”な話なんだよね。



 歌で人を救おうなんて思い上がっているバカ歌手が大勢いる。
またクソ曲を聴いて救われた気になっている人もたくさんいるんだろう。
それはそれでいい。否定はしない。しかしアーチストパワーでいったら雲泥の差だから。


 ではその『アーチストパワー』とはなんぞや?となる。


 それはファン(好意)でもなんでもない人たちのココロを突き動かしてしまう“芸能力”である。
コロッケ/高速・野口五郎、小松政夫/シラケ鳥に匹敵するパワーを持った楽曲が今ある?
ないでしょ。あるわけない。なにがアーチストだ!なにがミュージシャンだ!

 こういう横文字の胡散臭いエリアに居座っている連中をみると虫酸が走るんだ。
音楽を手段にしているだけの奴ら。下僕みたいなファンから金むしってるだけだもん。
存在そのものが薄汚い。ちょっとしたカルト教団である。

 少しは芸人さんを見習えといいたい。あ、お笑いタレントじゃないぞ。
芸人だからな。とにかく薄っぺらい音楽家きどりの『絶滅』をボクは切に願う。
そうしたら世の中に蔓延しているストレスの一部が消え去るわけだし。

 かわりにプロ中のプロはどんどん出現してもらいたい。
ザ・パイのパイはその隙をついてはじめて成立できるバンド。
だから本筋がちゃんと確立してもらわんと!……あら?これって理不尽な願望かね?

 とにかくボクは不謹慎なくらいエネルギーに満ちたものだけが真の芸術だと思っている。

 そして恋にやぶれたなら小松の親分さんの力をかりよう。



 ワリーネ、ワリーネ、ワリーネデートリッヒ!

バンドという村社会で生きる。


 ボクの場合ここだけで生活をしているわけではない。
だから厳密にいうと“この”エリアもあるということになる。
人は変われどバンドだけは22年間切らしたことはないのだ。

 あることがあたりまえだとは思わないけれど、ないとなれば新しく作るだろう。
ソロで活動する自由奔放さは魅力だけどさ・・なんかちょっとさびしいじゃん!


 今、ボクはある本を読んでいる。


 それは結成50年になるローリングストーンズのギタリストの著書。
キース・リチャーズ自叙伝「ライフ」である。なんと620頁!
とうぜん気軽に持ち運び不可。購入3ヵ月目。寝しなにちょろちょろと読むくらい。

 現在500頁まできた。ここまでほとんどが麻薬と女とミック・ジャガーの悪口ばかり。
特に60~70年代のドラッグ中毒に関する話は筆が走っている(笑)。
とにかくキースはよくここまで生き延びてきたと思う。それに尽きる。


 十数年に及ぶ完全無欠のヤク中状態を切り抜けた。


 しかも名盤といわれるアルバムを、それこそラリラリになりながら製作しているのだ。
誇張はあるだろうが、最長9日間も寝ないでレコーディングしたとか。
もちろん薬(ヤク)のおかげで不眠不休ができたことはおわかりだろう。

 めちゃくちゃだけど、才気煥発の起爆剤となったのはドラッグで間違いない。
ボクはむしろその部分よりも、キースが死ななかった方に奇跡を感じてしまった。

 しぶとい奴こそロッカーだ。ジミヘン、ジャニス、モリソン、シド、
そして盟友であるブライアン・ジョーンズは薬のやり過ぎで死んだ。
伝説的人物だけれど、死んじまったその瞬間に過去の人になる。



 先日、秋葉原へ行ってきた。あの街の産物ともいえるAKB48。
ありとあらゆる店先で彼女たちの曲が大音量でかかっていた。
少し足を止めてフルコーラス聴いてみる。ひでぇ。ここまでとは思わなんだ。

 昔はアイドルだって歌と踊りくらいはキチンとやっていた。
実体のないものこそがアイドルだから関係ないといえばそうなのかも。
しかしそこに実(じつ)やガチがあるから魅力的なんじゃないの?

 ボクはジャンケン大会や選挙がガチだなんてこれっぽっちも思わない。
けっきょく秋元康Pは、バカが一番金を落とすってことに乗っかっているだけだ。
話をキースに戻す。彼は自分のスタイルを極めようとギターを弾きまくってきた。


 金儲けのためだけじゃない。


 富も名声もすべて手に入れた男だが、それを維持するために音楽をしていない。
ストーンズといえば特に海外だとミック・ジャガーの人気が占める。
キースが歌う時間はトイレタイムだと聞いた。信じられねぇ!

 ミックだって素晴らしいパフォーマーだが、この人は儲け優先だもん。
音楽的にも超がつくほどの八方美人である。しかし他のメンバー達はミックと正反対。
真実一路。R&Rの職人といえる。そりゃ人間関係は崩壊するわな。

 じっさい80年代になるとミック&キースは犬猿の仲になった。
ボク個人は圧倒的にキース支持だが・・たとえ内情というか真実がどうあれ関係ない。
1989年からずっと好き。どんなに貧乏してても来日公演(5回)は必ず行ったしね。



 数々のアルバムを聴き、たくさんのインタビューや本を読むうちにわかってきた。
なぜキースに魅了されつづけているのかが。それはこれだ。


・人間味
・美意識
・言葉力


 この3つにつきる。スタジアムのステージでも人肌感が伝わってくるギター。
動きも独特。ミスをまるでおそれていない。上手とイカすってのは違うのだ。
ファッションも自分スタイルを貫いている。武道館の時、色褪せたスカジャンを着ていた。

 後で聞いてビックリ。なんとグッチのビンテージものだという。
車が買える値段らしい。そして30年以上身につけているのはスカルリング。
つまりドクロの指輪。これは「人間、皮を剥いだらみな同じ」という意味があるとか。

 身なりが綺麗とはいいがたいが、かわりに洗練された言語感覚を持ち合す。
信じられないほどテクニカルなギタリストは世界に数いれど、
キースほど粋なしゃべりをできる人はいない。男たるもの黙して語らずなんてのは時代錯誤だ。

 話せないからただ静かにしているっつうのは許せる。
けれど黙るが勝ちみたいなのは最悪だね。なんかセコイよ。
バカがキャラ作りしたってすぐバレるもん。それなりにしてからやれといいたい。

 理論武装も厄介だが、“自分の言葉”を持っていないのを真の表現者と認めるわけにはいかん。
寡黙でいいのはスクリーンの高倉健さんだけで十分だ(笑)。
ストーンズはバンドの村社会で50年間も吠えている現在進行形。


 膨大なとりまきに囲まれていれど、ストーンズこそアーティスト主導の最後の砦ではないだろうか?
簡単なようでバンドを何十年も動かしていくにはものすごいエネルギーが必要だ。

 ギターだけ弾いてりゃ、曲だけ書いてりゃ、ただ歌ってりゃ~では進んでいかない。
幾つものことを同時進行させていかなければならないわけで・・・


 …というところでたった今「ライフ」を読破しました。
文章を書きながら本を読んでみたわけ!これも一つの“同時進行”だ!


 だが誰もほめてはくれないだろう! ロックンロール!!

 このへんで失礼する。どうもね。


どうも解せない。
放射線物質が東北地方を中心に飛散、いや全世界に飛び散ってから9ヶ月。
現場で作業している方々は大変だ。寿命を縮めるような毎日。頭が下がる。
それにくらべて政府や東電の上役は何をやってんだといいたい。なかでも食品に関することだ。

いつのまにやら感情すら操作されていやしないか?そう思っているのはボクだけでないはず。
安全の基準、生産者への同情、誤情報と誤受、特にこの3つ。ひじょうにまずい状況である。


たとえば100ベクレル以下が安全だとする。じゃあ99ベクレルまでOKなのか?それは違う。
クリアランスレベルといって、基準値の10%以下ならおよそ大丈夫だという目安がある。
これは震災前からの規定。しかしこんにち、多少のプラスはいかしかたのない事とは思うが…。

張り紙で「安全デス!」と書かれているだけの食品を、ボクはまったく信用することできない。
値段や産地名と同じように、ベクレルの数値を記載すべきだ。なぜそれをしない?できない理由があるのか?あるんだろうな。
福島県、茨城県、栃木県、群馬県、千葉県、埼玉県、東京都、神奈川県、静岡県で作られた物は特に注意が必要である。


小田原市内で獲れた茶葉からセシウムが検出されたことを知った静岡県はなんと測定拒否。
この県知事のバカな判断があらたな風評被害をうむ。呆れたね、あのオッサンには。

要するに出荷停止なんぞになると生産者が食えなくなる。そうなりゃ小売店も潰れてしまう。
税金がとれない。町から人がいなくなる。そんなシナリオが頭の中にできてたのかね?


事実をあきらかにしないことはイコール被曝に繋がる。


生産者へ同情する前に、それを食わされる消費者のことを考えろといいたい。
農家や漁師が「かわいそう」だからって、クリアランスレベルを超えた食べ物をむやみに子供に与えてはならないのだ。
テレビや新聞雑誌は、汚染されていようが関係なく被災地のために金を落せと煽る。

それを突っぱねると非国民扱いされるような雰囲気を感じるのだ。まったく冗談じゃねぇ。
ぶっちゃけ、震災おこぼれをすすっている奴はゴロゴロいるぞ。いわゆるドサクサ紛れってのがね。
食ったら病気になるようなヤバイ物を売りさばいている連中は何を思っているのだろう?


恥ずかしくないのか?後ろめたくならないのか?自分たちの生活ため?
おいおい、人間そうそう野垂れ死なんかしないよ。できないよ。

はっきりしろ。
あきらかにせよ。
ダメならダメ。
イイならイイ。

放射性物質という猛毒が関わっているならなおのこと。
被災した人、被災してない人、まぁ言っちゃあ悪いが所詮いろいろだ。
被害者だって加害者になりうることをお忘れなく。笑顔で毒をばら撒けるのが人間というもの。


人って本能で「きれいごと」をゴリ押しできちゃうんだよ。

開き直るにゃまだ早い。騙し合いにつきあうのはまっぴらゴメンだね。



天災より人災の方がめっぽうたちが悪いのです。



どうもね。

あっという間に過ぎ去った2011年。それはそれなりに映画をみたのでした。


☆一月
たまの映画◆
アウトレイジ
ソーシャルネットワーク◆

☆二月
YOYOCHU◆
RED
ヒアアフター◆

☆三月
ザ・タウン
ノッキング・ヘブンズドア
英国王のスピーチ◆
悪人
ファッションが教えてくれること
花と蛇
ヴァイブレータ
クレイジーハート
トラブル・イン・ハリウッド
エッグ
塔の上のラプンツェル◆

☆四月
必死剣鳥刺し
トゥルー・グリッド◆
ハート・オブ・ゴールド
ブルー・バレンタイン◆

☆五月
八日目の蝉◆
リミット
デュー・デート
シティ・オブ・メン
ブラックスワン◆
ノーカントリー

☆六月
アイルトン・セナ
告白
マッチポイント
アンナと過ごした4日間
127時間◆
スーパー8◆

☆七月
ハングオーバー2◆
クロッシング
ハングオーバー
DIG!
フォンブース
ビューティフル◆

☆八月
冷たい熱帯魚
KOCORONO
板尾創路の脱獄王
ミックマック
ツリー・オブ・ライフ◆
ギミー・シェルター
ターミネーター
ハウスメイド◆

☆九月
マチェーテ
ゾディアック
エグザム
地球征服◆

☆10月
レイジングブル
ディアハンター
タクシードライバー
アンノウン
猿の惑星 ジェネシス◆
カンパニーマン◆
アンストッパブル
PJ20◆
キャプテンアメリカ◆
シングルス

☆十一月
8ミニッツ◆
ザ・ファイター
さや侍
仁義なき戦い
ウィンターズ・ボーン◆
エンディングノート◆

☆十二月
デビル
ナニワ・サリヴァン・ショー◆
ミッションイン・ポッシブル◆

◆←劇場観賞した作品






良作から駄作までいろいろ。こと終えた後の気分がこれほど違うものもそう他にない。
これってやっぱり時間を預けるからだろうか?120分前後だもんね。
そりゃダメな作品にブチ当たったらすべてが無駄になってしまう。となると、ある程度の下調べは必要なのかも。


とはいえネットのレビューなんてほとんど役に立たない。
一番信用おけるのは、ボクの好みを把握している映画通の友達から感想を教えてもらうこと。

たとえば興味があるのにスルーしていた映画を、「これは平馬は気にいるはずだ」
な~んていう連絡があれば絶対に行く。じっさい11月にみた「ウィンターズ・ボーン」がそうだった。

メールを送ってくれたその友達と面と向かって会うのは2年に1度くらい。
けれどそうやって映画というものを通して、お付き合いはずっとつづいているわけです。



【最優秀作品賞】

ブルー・バレンタイン


ラブ~やらロマンス~と冠がつくようなもは、おのずと足が遠ざかるのだが・・・
これ、恋愛というよりは男と女を描いた物語。おそらく評価はわかれるだろう。
甘ったるい関係しか異性に求めていない恋愛体質のバカは見ない方がいい。
過去と現在をシンクロさせる演出はよくあるけれど、それを見事に演じきった役者陣に拍手!!



【最優秀主演賞】

ナタリー・ポートマン


私的といっても主流に反するチョイスばかりではないという代表例。
「ブラックスワン」の演技は鬼気迫る女優魂をみた。アカデミー獲得に誰も異論はないはずだ。
レオンの天才子役(マチルダ)がそのまま才能を爆発し続けているすごさ。
まさに50年に一人の役者さんである。


【ダメダメ最低作品賞】

ツリー・オブ・ライフ


ホントに腹が立ったなぁ~。しかも上映時間が長かったんだよ。
エンドロールでまわりの客からブーイングが起きてた。
そんな珍事件にも初遭遇。これを最高と評する方がいたら、どこがどうイイのか説明をお聞きしたいものだ。
ボクからしたら、あれは単なる監督の思いあがり。観客不在の超駄作である!




勝手気ままに綴ってみた。補足になるけれど、作品のベスト3を挙げてみると・・・

1 ブルーバレンタイン
2 猿の惑星 ジェネシス
3 ビューティフル

ナンバー2の猿の惑星は最高だった。すべて人間どもが悪い!地球のガンはおまえらだ!
とどのつまりそんな物語である。まったくその通りですよ。見終えた後の爽快感は、これがダントツでした。


さて2012年はどんな映画に巡り会えるのだろうか?
いきなりだけど、「歌謡曲」と「アイドル」の話をする。



今パッと頭に浮かんだアイドルを言えとなったら、100人中80人はAKB48というだろう。
現在、国民的アイドルはAKBとスマップの2つでまちがいない。

前者は曲を出せばミリオン。そのCDに付く特典もすごい。後者は2年連続紅白歌合戦の大トリ。
ボクは彼らを否定しない。売れるって大変だし、もうそれだけでスゴイことなんだ。
誰もが口ずさみやすいメロディ。アイドル特有の「難しい事はぬきにして」をうまく利用している。

グループ系は売れてくると、いわゆる「バラ売り」をして個々の露出度をアップ。
そして再びグループに戻った時のお得感を増加させるのだ。かつてのローリングストーンズもそうだった(笑)。
とにかく集めて切ってバラしてまた寄せ集めるの繰り返し。そうやってマンネリ回避しているのだ。


仕組みはどうでもいい。ボクが言いたいのは、「いい大人」がアイドルに夢中になっている世の現状だ。
AKBの仕掛人である秋元康氏。彼は世間をみる天才だと思う。
どうしたら人が金を落としてくれるのかを知り尽くしているといっていい。

ただし、こんな簡単でいいんだ!と思っているのは、実は秋元さん本人ではないだろうか?
ジャンケン、選挙、バラ売り、不祥事(?)まで商売にしている。けどそれって外野でしょ。
肝心の曲は音楽っていうより呪文・洗脳に近い。ダンスなんてみんなバラバラだもん。

まだ場末のキャバクラ嬢のショータイムの方が息が合っているって。
ようするに実の部分がおざなりになっていて、どうでもいい外枠に異常ともいえる・・・
あら?しっかり否定しちゃってら(笑)。まぁいい。アイドルに罪はない。

それに群がるファンもいて当然だ。しかしだね、社会現象にまでなっているのは薄気味わるい。
右へならえの国民性に拍車がかかり、巨大な群集心理が渦を巻いている。
もうちょっと成熟した芸能に触れようという意識はないのか?多勢を拒否する自我もないのか?

老若男女、隅から隅までおめぇらなにやっていやがんだと。イヤな世界だね。しょうもねぇ。
スマップにしたってほとんどが40男だよ。「キムタク」なんてガキみたいな愛称で呼ぶな。
バタヤン(田端義夫)は別格だからいいがね、なにがキムタクだ、なにがマエアツだである。



震災や原発事故を真剣に話す人に冷ややかな態度をとり、
タレントの話題にはパブロフ犬のように飛びつく風潮ってどうなんだよ。
文化芸術の衰退は、つまり平和ボケのあらわれでもある。

戦争が勃発した時に武道館へ籠ってジャンケン大会は見られないよ。
食うに困ったら何千枚も同じタイトルのCDは買えないでしょう。
まぁ一部の真性馬鹿は、戦火や飢餓も関係ないか。


ハッキリ言っておきたい。


今現在の状況は「危険領域」である。非常事態を過ぎ、諸問題がうず高く積まれている状態。
歴史的にみると災害や戦争などの危機にさらされた後ほど、質の高い芸術が生み出されているのだが・・
まぁこのあり様である。もはや惨状に近い。いやぁ、楽観主義者のボクが言ってんだよ。


たしかに今までは「どうってことねぇ」の一辺倒であった。けれど今は違う。
こりゃヤバイぞと。日本って国で生きていくって事がである。せめて◯◯だけでも・・・
そんな精神支柱をみんなが持っておいた方がいい。ボクにとってその◯◯は音楽だ。

思いあがりも含めてロックかもしれないがね、冗談やめてくれよって奴がほとんど。
たまたまわかりやすいところでAKBに群がるバカどもでたとえたわけだが・・


自分で自分自身のプロデュースをしよう。

なぜなら人生は自分のものだから。美意識はそこから芽生える。

操り人形はイヤ。操るのもイヤ。群がるのもイヤなのだ。


先生、踊りたくない場合はどうすりゃいいのですか?



中学1、2年の必修科目に「ダンス」が加わったという。
ヒップホップミュージックに合わせて踊る中学生を、朝のニュース番組で見た。

なぜこれが必修なのかボクにはサッパリわからない。
ダンスって自由なイメージが定着しているが、じっさいは違う側面もある。


規則的な動きを要求されるわけだから。今、自分が中坊だったら間違いなくボイコットするだろう。
あ、当時も音楽教師の言動が気に入らないと、中2の3学期丸々拒否してやったけどね。
イヤなガキだと思っただろうな。とにかくダンスを否定するつもりは毛頭ないが、かかっているサウンドがノレない。

まったくダメ。話にならん。雑音。耳障り。
ヒップホップミュージックのルーツはギャングが主役だぜ。それをわかってんのかね?
ブラックミュージックを認めるならば、イギリス発祥のパンクも授業に取り入れろよな。

パンクスの精神、楽器のぶっ壊し方、正しい鼻ピアスの開け方なんてのも盛り込め。
誤解を招くだろうがあえて言う。ヒップホップの音はジャンクフード。肉体や精神を蝕むものだ。
つまり給食に不自然な添加物の入った食品&甘味料どっさりの炭酸飲料が出されるようなもの。

食育云々という世の中で、耳に入るものは何でもかんでも許されるのは変である。
毎日ダンスの授業があるわけではない。だが、定番嗜好の入口になる可能性はあるわけ。
無機質で人工的な音色、高揚感を無理やりあおるループ、常軌を逸脱した音圧・・・

あれをスタンダードな音楽だと誤認してほしくない。主流であってはならない。
自分でお金を稼ぐようになり、自分自身のテリトリーをコントロールできるようになってから聴けばいいのだ。
まずは、人間が奏でる音楽の美しさ、嫋やかさ、心地よさ、ぬくもりに満ち溢れた音にふれてほしい。

だいたい子供目線てぇものを勘違いし、くだけた感じを醸し出そうとしている教育者が大バカなんだよ。
日本人なんだから、日本文化の素晴らしさを地道に伝えていくのが本筋ってもんじゃないの?
ちなみにボクはヒップホップのアルバムを何枚も持っている。

しかしあれで踊ろうとは思えない。カラダが動かない。いや、動こうとしない。
今まで自然に踊らされてしまった事が何回かある。我を忘れたというかね。

それは、ボ・ガンボス、ブルーハーツ、渋さ知らズ、ズボンズのライブだ。
もちろんどれもバイトや仕事で得た金で“自発的”に行ったコンサートである。




学校教育とは、人間が人間らしく生きていくヒントを与えてあげる場でなくっちゃね。


「こんな音じゃイヤ!」


そんなクソガキを応援したい。踊らされてたまるか!!だよな。


桜が咲き、散ってはまた咲く。


それを10回も繰り返したんだね。そう、ザ・パイのパイは今年で結成10周年なのだ。
はじめてのライブは千葉。最初の半年間は拙さばかりが目立っていて…無理もないか。
テキストになりうる先駆的存在もなく、頭の中での理想を追い求める手探り状態がしばらくつづくことに。


2、3年活動してようやく浮遊するような心地よさを味わえるようになった。
まぁ、堅実な演奏力や歌唱力など、あるにこしたことはない。
しかし、得たら得たでつまらなくなる気もする。感覚の問題。気分がすべてか。


人間ありき。

今は何でもかんでもパソコンでやれちまう世界。


たとえばドラムだ。リアルに人が叩いている質感を100%忠実に作れるとか。
だから一介のスタジオミュージシャンたちは仕事にあぶれ悲鳴をあげているらしい。
ドラムがそうならば、ありとあらゆる楽器奏者も同じなのだろう。とんでもない世界だ。


「あたり前」というものの転換期を目のあたりにし、ボクは冗談じゃねぇという思いもつのっていく。
音楽以外でもだ。たとえばライブハウスの存在意義に対しても、首を傾げる事が多くなっていた。
20代半ばを過ぎたあたり。そろそろ自分主導でやるしかねぇ。そんな意識が芽生えたのだ。


ドラムはもういいや。


30才目前になったボクは、考える前に結論は出していた。
そうとなったら賛同者の獲得へ。真っ先に頭に浮かんだ人物がいる。その人こそが宮内孝臣。
彼とはドラマー時代に2年ほど同じバンドでプレイしていた。ところが連絡先を知らない。

人づてに聞いてみようと思っていた矢先のこと、渋谷でばったり遭遇!!
約5年ぶり。あまりのタイミングに、ボクはプランの話をすることができなかった。
どうでもいい近況を交換した後、日を改めて歌舞伎町の「ルノアール」で会う。

自分がVoをとる新しいバンドの計画をふってみると、
宮内君は「オレはもうギターは弾いてない。最近は三線ばかりなんだよね」
と、そう返してきた。いやぁ、我が耳を疑ったね。


そう。何を隠そうボクは三線弾きがほしかったから。


まさか、まさかの展開に。とりあえず2人でスタジオに入りましょう。
今までお互いロック色の強い音を出していたのが、それはそれは小っさい音に(笑)。
違和感があったなぁ。2001年の終わりの頃である。とても寒い日だった。




3ヶ月間でなんとか初ライブにこぎつけよう。他のパートを入れなくては。
ベース/森、ギター/ぎっちゃん、お囃子/チャコ&ユーコ、この4人が加入。
合計6人でパイ(当時、パイのパイコンバート)は活動開始したのである。

今現在も在籍しているのは、ボク、宮内くん、森ちゃんの3人だけ。
次にケイトが8年くらい太鼓を叩いている。たこすなんて一児の母になったもんね。
みんなそれぞれの生活をおくりながらバンドをやっているわけだが、まさか10年つづくとは。


しかしこれには根拠というか、“秘訣”があると思っている。

今年で結成50年(!)、あの「ローリングストーンズ」をみるとそれはよくわかるのだ。



つづきは次号で。



偶然は単なる偶然か?

それとも、、、

その偶然を必然とみることができたのか?


それってとどのつまり「縁」を感じたかどうかだと思う。
結成50周年を迎えた、ザ・ローリングストーンズも最初は偶然からはじまったのだ。
それが縁となりミラクルを生み出した。50年だよ。キセキとしかいいようがない。

すべては巡り合わせ。ビートルズの4人だってそう。
ポールはポールでも、ポール牧だったら状況は大きく変わっていただろう。
けれど彼らは70年代を前に解散した。活動期間は7~8年だと思う。



同年デビューのストーンズはいまだ現役。なぜそんな息の長いバンドになれたのか?
バンドの中核はミック・ジャガーとキース・リチャーズといわれている。
しかし、たしかに表向きはこの2人だが、じっさいはドラムのチャーリー・ワッツだと彼らは話す。

これは節目〃の年のインタビューで、キースが必ず発言していること。
バンドが長続きする秘訣は?との問いに、「チャーリーがいるから」だと答えている。
物事がゴチャゴチャになっても、チャーリーの「鶴の一声」で事態は収拾するのだとか。

はっきりいってチャーリーのドラムはテクニカルではない。ヘタウマって範疇だ。
ところがキースはチャーリーこそが世界一のドラマーだと敬意を表している。
おそらく全人格をひっくるめての評価なのだろう。うるさ型のミックもそこは共通しているのだ。





個と個が会して集団となる。バンド、会社、学校、家族、みんなそうだ。
ボクは今まで10年間も同じバンドに在籍した経験はない。途中で辞めたり、空中分解したり。
パイにも危機的な状況と思えたことも、二度、三度ある。けどそれはなにも危機ではなかった。



宮内くん(三線)がいたからだ。



彼こそがザ・パイのパイにとってのチャーリー・ワッツなのである。
とにかく彼がイヤがることはやらない。たとえボクが是と思っていることでもだ。
例のお互いギターとドラムでたずさわっていたバンド時代のエピソードがある。

ある日、そのバンドにテレビのオーディション番組から話があった。
書類選考を飛び越して、いきなり出演できると。ボクはこのバンドで売れたかった。
だから即オッケー。ヴォーカルやベースのメンバーも喜色満面。チャンス到来。

しかし浮かない顔をした宮内くんは、「テレビなんかどうでもいいんじゃないの?」という。
これには呆気にとられた。しかしいつのまにかみんな納得してしまったから不思議だ。
今思うと、彼の<言い草>にやられたなって。「ヤダね」なんて言い方されたら揉めたはず。

疑問形だから、もうちょっと考えるべきだと遠回しに言われている感じになる。
ボクみたいに一刀両断的な言葉の使い方をしない。彼が人とトラブルになったって聞いたことないもん。
無口なタイプだが、肝心な場面での一言は瞬時に言い放つ。絶妙の間というか、ズルいよ(笑)。

ほとんど毎日が日曜日みたいな生活をしていたのに、どうも最近マジメに仕事をしているようだ。
おまけにパソコンまで購入。そんなもん使って何してんの?
そうメールしたら、「パンクバンドの動画を見てる」と返信があった。


ま、一安心(笑)。
どうせそのうち飽きるんだろ?
というわけで皆々様!ザ・パイのパイを今後ともごひいきに!

宮内くんが辞めたり、解散宣言したり、死んじゃったりしなければ、パイはしぶとく活きていくでしょう!




偶然をなめたらいかんね。すべては偶然からはじまるのだから。

2012年7月7日。
友だちが死んだ。

高校時代の同級生。彼は卒業してから競輪選手になった。
S級で優勝経験もあり、現役生活も20年近いベテランである。
死因はレース中の事故によるもの。ゴール直前、前を走る選手が転倒。落車。

それを避けたことによって、写真判定のカメラが設置されたポールに激突。
心肺停止。蘇生処置むなしくそのまま帰らぬ人となってしまった。
偶然、テレビのニュース番組をみた共通の友だちが訃報を伝えてきたのだ。



彼の名は、『坂本照雄』という。
享年40才。



ものすごくいいやつだ。いや、死んだから、いいやつ“だった”か。
強靭な体躯ながら、柔和で一本筋の通った性格の持ち主。

つまり気は優しくて力持ち。丸坊主。高校時代は野球部の主力メンバー。
いつもニコニコしていてね。照雄を嫌いだというやつはひとりもいなかった。

ただ穏やかだけでなく。理不尽な事をされたら迷わず立ち向っていくタイプ。
それは教師に対しても同じだった。あいつがキレたのを何回か見たことがある。
それはそれはの大迫力。じっさいボクも一瞬即発になりそうなったこともあった。

ボクが照雄をしつこくからかったんだよな。そしたらあいつは、食ってた弁当を投げてきやがった。
なまじコントロールがいいから、きっちりYシャツの胸のところへナポリタンが命中。
ケチャップまみれのこっちもだまっちゃいねぇ。「テメェ、おもて出ろ」だ。

そうしたらまわりの連中が止めに入った。よかった。たすかった。
喧嘩になっていたら、間違いなくボクはやられていたはず。
運動神経、身体能力、精神力、根性、忍耐、すべて雲泥の差。やつにはかなわないよ。

そんなこんなで、お互い強情だから絶縁状態になった。口もきかなければ、目も合わせない。
ところが3ヶ月ほど経ったある日、ボクのところへつかつかと照雄が近づいてくるではないか。
「平馬ちゃん、ゴメンな」あいつが詫びを入れてきたのだ。

そんなもんすぐ手打ちである。謝らなければならないのは絶対にボクの方だった。
それを言えなかったことが、ずっと心残りでいたんだよな。いつか話せる日がきっと来る。
しかし叶うことはもうない。まさかこんな事になろうとは。これも運命だってのかい?


よくわからない。
ますますわからない。


死亡の報だけでは信じることができなかった。7月9日 午後6時からの通夜に参列。
場所は小田原式典総合ホール。たくさんの人たちが列をなしていた。
7時になると、棺の中にいる仏と対面できるという。やっぱりそれはまぎれもなく照雄だったのだ。

ボクは23年前の出来事を詫びた。「オレが悪い。オレが先に謝るべきだったよ」とね。

会いたい人、会うべき人、会わなきゃならない人、あなたにそんな人がいるなら即行動すべきです。




そしてボクはもう一つ照雄に伝えた事がある。


「高校3年の時、おまえはみんなに内緒でプリプリのライブに行ったんだってな!

オレは知っていた。「M」で泣いたって?バカかオメェは。

会った時その場で暴露してやろうと思ってのに・・・」


おい照雄!

ナポリタンでも、ミートソースでも、カルボナーラでもかまわねぇ。

また放り投げてみろよ。




「アウトレイジ ビヨンド」をみた。


北野武監督作品。初の続編である。とにかくヤクザものを作らせたら天下一品。
今作も、監督、脚本、編集を担っている。芸術色は薄い。完全無欠の娯楽映画だ。
意外だったのはセリフの多さ。状況説明をすべて登場人物の誰それに喋らせている。

過去のテイストとはあきらかに違う。そこが好き嫌いの分かれるポイントかもしれない。
それともう一つはキャスティング。ボクはこれが一番驚いたし、まだ首を傾げたままである。
従来はテレビ畑の役者をほとんど起用しないのだが、ビヨンドはガンガン起用。

中尾彬、桐谷健太、高橋克典、名高達郎、などなど。うーん、やっぱり浮くよな。
たとえば中尾彬さんなんてコテコテすぎでしょう。口や手の小芝居が目につく。
何かしていないと間がもたないのか?どこかしら動いている。あれでは興ざめだ。



対象的に、小日向文世とビートたけしの演技は素晴らしかった。それぞれ刑事役とヤクザ役。
まさに物語の軸になっている2人。私的MVPは小日向さんで決まり。
この役にハマりにハマっていた。やはり配役の肝はキッチリ押さえているってことでしょう。

現在、「アウトレイジ ビヨンド」は観客動員ランキング1位。
ビヨンドをきっかけに、北野監督のファンになった人はたくさんいるはず。
ぜひ、あえて「ソナチネ」「3ー4x10月」などの初期作品を見てほしい。

同じ監督が撮ったとは思えない作風だから。柳ユーレイの凶暴性に触れるべし!



この“振り幅”こそが天才たる所以なのだろう→→→→
→→→→その北野武=ビートたけしは亡き立川談志を「鬼才」と評した。



「落語の世界が一般認知がされないジレンマのせいで、天才が鬼才に変わってしまった」
ともコメントしている。ロック界だとジョン・レノンがそれに近いかもしれない。
ジョンは本気で世界を変えたかった。しかし果たせなかった。天才は狂人と扱われ抹殺されたのだ。

談志の遺伝子をもっとも強く引き継いでいる弟子に「立川志らく」がいる。
なかのZERO小ホールで独演会があったので見に行ってきた。寄席とは違うホール落語。
前座から始まり、ふつうお目当ては二席と決まっている。時間にしてトータル2時間ほど。

しかしこの日の志らくは四席。「転失気」「笠碁」「居酒屋」「崇徳院」。
そのどれも完成度が高い。起承転結っつう部分ならば師匠超えをはたしているのではないか?
それと談志とはまた少し違う狂気を含んでいる。噺の中に“狂”が散りばめられているのだ。

寄席では味わうことのできない、たとえるなら短編映画を4本観た気分になった。
志らく師匠はこのまま『鬼才』といわれる存在になっていただきたい。




というわけで、このごろは東京に行く度に映画や落語を楽しんでいる。
「老後の先払いしていやがる」と陰口をたたかれているようだが、何とでも言え。

おぼろげではあるけれど、自分の琴線(きんせん)がどういう線なのかわかってきた気がする。
ボクはもう臭いミュージシャン、臭い噺家、臭い役者、臭い監督は御免蒙る。
かといって自然派がすべて良質だとは限らない。胡散臭いのは大事。ただ臭いだけとは違うのだ。
“いかがわしさ”は、うかがい知れない類の緊張感を生む。

どこかがピーンと張り詰めた雰囲気は見世物としてきわめて重要なのだ。
あえてエンターテイメントとは書かない。そんな横文字はまやかしだ。見世物でよい。

世の中、庶民、大衆と対峙しつつ、常識に定住することをしない表現者をボクは愛す。




え~、日本の音楽界で今そんな人がいますか?どこ見渡してもいないように思う。

んん、上原ひろみがいた!





平成24年も年の瀬。残りあとわずか。ちょっと“まとめ”ておこうと思う。



パイのライブ本数は年間を通じ過去もっとも少なかった。月2、3本やっていた頃と比べたらおよそ半分以下。
それでも充実感はある。特に上半期のハイライトだった沖縄。それと9月のワンマンは思い出深い。
遠方だと泊まりになる。沖縄、千葉、新潟と3ヶ月連続でそうなった。

それとギターのサポメンとして参加している、シュンタローとプレイできたのも感慨深い。
彼は20代前半。ちょうど宮内君の半分か(笑)。しかもこの2人はご近所同士。
すべては偶然からスタートするってのは本当だ。夏から一気に平均年齢が下がった。


そして下半期に大きく自分自身変化したことがある。それは「落語」にはまったこと。
きっかけは6月10日。志木パルシティで行われた「柳家小三治独演会」である。
その二席目のネタ。滑稽噺「粗忽長屋」に大衝撃を受けた。打ちのめされたといっていい。

それ以降、毎日毎日、昼夜問わず落語を聴きつづけている。なんだか音楽がバカバカしく思えた。
ある時期ロックはおろかまったく音離れをしていたほど。落語だけ貪り食うように聴きあさった。
酒や食事の嗜好、ものの視点や考え方すら変化したように思う。死んだ談志の名言がある。


「落語とは、人間の業を肯定するものである」


一つのジャンルをバシッと端的に言い表した珠玉のコトバだ。
では音楽って何?ロックとは何ぞや?ジャズは?クラッシックは?
一言で説明できる音楽家はこの世に少ない。

それができないから音で表現しているのだと反論されそうだが、コトバで集約できるのが人間なのである。コトバだって音ではないか。誤魔化しちゃならん。
まぁそういう自分もまだ一言で説明できる器量を持ち合わせていないのだが・・・


そんな中、再び音楽の素晴らしさを味わせてくれたピアニストがいる。
上原ひろみ。前々から注目していたが、あるドキュメント番組がきっかけになった。
ジャズミュージシャン特有の鼻にかけたような雰囲気をまるで感じない人。なのに超絶テクニック。

これは一度ライブを見る必要があると思ったわけ。12月1日富士市ロゼシアター。
12月8日東京国際フォーラム。同じツアーで2回も足を運ぶなんてストーンズ以来かも。
奇跡的な演奏を眼前にただ驚くばかりだった。しかも無邪気に弾くんだよな。

上原ひろみさんはココロから尊敬できるミュージシャンのひとりだ。
まさに全身音楽家。ボクにはわからない領域に突入し、また何かを突破しているのだろう。
東京公演のMC「毎日この瞬間(ライブ)を楽しみに生きています」・・彼女が言うと嫌味に聞こえない。


噺家/柳家小三治 73才
ピアニスト/上原ひろみ 33才



このお2人の年齢差は40才。もちろん性別、性格、性質はずい分と違うだろう。
いや、もしかしたら似た物同士かもしれない。けれど決定的に近いのは「芸が臭くない」事である。
水の流れの如く。この境地は並大抵の努力で得られるものではない。


で、無理やり自分の話をするか、ボクはこの「努力」イヤでイヤでたまらない。
分解すると、「努力をしているという自意識とその状況に不満がつのる」のだ。
あぁ、これを屁理屈っていうんだろう。仕方ない。ホントのことだから。

努力の結晶こそが芸であり、それを披露できる者だけがステージに上る資格があるというなら、
ボクは銭をとってライブなんかしてはいけないのかもしれない。…ちょっと謙遜しすぎ??
とにかくあの2人の才能に触れて
いろいろ考えさせられました。えらいもん見ちゃったよ。



最後にひとつだけ憎まれ口を叩かせてもらう。

「音楽や落語を最もナメ腐っているのは、何を隠そう大部分のミュージシャンと噺家です」



2012年よ、さようなら。
どうもね。






毎年やっていた私的アカデミー企画ができなくなった。
見た映画をiPhoneにメモしていたのに、跡形も無く消えてしまったからだ。

そこにきてちょうど落語にのめり込む。2012年の下半期から。
というわけで今回のコラムは文章でなく単なる記録となった。

あしからずご了承を。ではまず寄席/落語会のデータからいきます。



【2012年】

◆6月10日
柳家小三治 独演会
志木パルシティ
「天災」「粗忽長屋」
◆6月29日
柳家小三治/主任
新宿末廣亭
「かぼちゃ屋」
◆6月30日
柳家小三治/主任
新宿末廣亭
「厩火事」

◆7月27日
柳家喜多八/主任
鈴本演芸場
「お直し」
◆7月29日
柳家喜多八/主任
鈴本演芸場
「千両みかん」

◆8月13日
三遊亭圓歌 圓歌祭り
鈴本演芸場
「中沢家の人々」
◆8月25日
立川志の輔 独演会
武蔵小金井市民交流センター
「猿後家」「新・八五郎出世」
◆9月8日
柳家さん喬 独演会
讀賣ビル(人形町末廣跡)
「ちりとてちん」「幾代餅」
◆9月26日
柳家喬太郎 蕎麦寄席
伊東/成木屋
「花筏」「堀の内」
◆9月29日
古今亭文菊・志ん陽 真打襲名興行
鈴本演芸場
文菊「壺算」志ん陽「子別れ 下」
◆9月30日
早朝寄席
鈴本演芸場
台所鬼〆「穴どろ」など

◆10月7日
柳家小三治/主任
鈴本演芸場
「甲府ぃ」
◆10月12日
立川志らく 独演会
なかのZERO小ホール
「笠碁」「居酒屋」
「転失気」「崇徳院」

◆11月10日
春風亭一之輔/主任
浅草演芸ホール
「明烏」
◆11月13日
入船亭扇遊 秋のひぐらし寄席
伊東ひぐらし会館
「木乃伊取り」「家見舞い」
◆11月24日
桃月庵白酒/主任
鈴本演芸場
「幾代餅」
◆11月26日
古今亭志ん輔 スカイ寄席
曳舟文化センター
「佐々木政談」

◆12月21日
柳家小三治 独演会
銀座ブロッサム
「茶の湯」「千早ふる」

【2013年】

◆1月5日
柳家三三 独演会
小田原市民会館
「権助提灯」「妾馬」
◆1月18日
立川談笑 新春談笑ショー
渋谷区文化総合センター
「?」「?」


【CD】

◇春風亭柳朝
・寝床/掛取り/一眼国
・宿屋の仇討/船徳/浮世床
・粗忽の釘/品川心中
・蛙茶番/井戸の茶碗/道具屋

◇柳家小三治
・富久
・初天神/時そば

◇三遊亭円右
・千早振る(プレゼント)

◇東西名人揃いぶみ
・扇橋/七代目円蔵/小さん

◇立川談志
「落語CDムック」
・芝浜/源平盛衰記
「プレミアムベストBOX」
・饅頭恐い/鼠穴
・風呂敷/笑い茸
・金玉医者/白井権八
・与太郎三本立て
・らくだ
・勘定板/五貫裁き
・芝浜
・ぞめき/やかん
・千早振る/浮世床
・松曳き/九州吹き戻し
・初席の思い出

◇古今亭志ん生
・火焔太鼓/文七元結

◇落語名演ガイドBOX
・文楽・三木助
・圓生
・志ん生
・馬生
・金馬
・小さん
・正蔵(彦六)・今輔
・柳朝・小圓遊
・圓歌・柳昇・米丸

【DVD】

○立川談志
・情熱大陸
・談志が帰ってきた夜
・談志独り占め
・ひとり会10枚組(プレゼント)

○とっておき寄席
柳家たっぷり二時間半

○落語大全FROM笑王
瀧川鯉昇/柳家はん治

○落語の極
三遊亭圓歌

○本寸法 ビクター落語会
入船亭扇遊


【書籍】

○柳家小三治
・小三治の落語1
・小三治の落語2
・小三治の落語3
・まくら
・もひとつまくら

○柳家花緑
・落語家はなぜ噺を忘れないのか
○落語ファン倶楽部
・柳家のすべて
・談志だいすき

○吉川潮
・春風亭柳朝一代記

○広瀬和生
・この落語家を聴け!(プレゼント)
○橘蓮二(写真家)
・寄席 芸人 四季
・高座
・おあとがよろしいようで
・高座のそでから
・噺家 立川談志

○立川志らく
・立川流鎖国論

○立川志の輔
・古典落語100席

○立川談志
・現代落語論パート2
・遺言大全集(書いた落語傑作選)
・遺言大全集(早めの遺言)
・談志絶倒昭和落語家伝
・世の中与太郎でえじゃないか
・酔人 田辺茂一伝
・談志楽屋噺
・人生成り行き、談志一代記
・遺稿

○落語ギャラリー60

○稲田和浩
ザ・前座修行

【図書館所蔵/ダビング】

□柳家小さん
・禁酒番屋・へっつい幽霊
・大工調べ・湯屋番・狸
・高砂屋・首提灯・千早ふる

□柳家小三治
・野晒し
・船徳
・芝浜
・猫の災難・粗忽の釘
・死神
・鼠穴
・薮入り・短命
・ドリアン騒動?備前徳利
・宗論・出来心
・めりけん

□五街道雲助
・中村仲蔵/電話あそび

□金原亭馬生
・欠伸指南・そば清・幾代餅
・笠碁・目黒の秋刀魚

□三遊亭金馬
・居酒屋・たがや・花見の仇討
・茶の湯・小言念仏・薮入り

□古今亭志ん生
・火焔太鼓

□古今亭志ん朝
・お見立て・火焔太鼓
・二番煎じ・お茶くみ
・堀の内・化物使い
・付き馬・三年目
・崇徳院・御慶
・佃祭・小言幸兵衛

□立川談志
・鰻屋・死神

□立川志の輔
・はんどたおる
・八五郎出世・芝居の喧嘩

□柳家さん喬
・品川心中/上下
・ちりとてちん
・片棒・芝浜
・唐茄子屋政談

□柳家喬太郎
・寿限無・子ほめ・松竹梅
・金明竹・錦木検校

□柳亭市馬
・猫忠・将棋の殿様
・掛取り漫才・富久

□柳家権太樓
・蛙茶番・笠碁

□春風亭柳朝
・芝居の喧嘩
・天災・大工調べ

□三遊亭圓生
・蝦蟇の油
・夏の医者・包丁・佐々木政談
・百川・文七元結

□三笑亭可楽
・二番煎じ・今戸焼・子別れ

□桂文楽
・寝床

以上

[2012.7~2013.1]

寄席 ホール落語→20公演
CD→30枚
DVD→17枚
書籍→28冊
ダビング→45タイトル


あえてテレビ録画のデータは割愛しました。

この“熱”が、ギャンブル、風俗、愛人、アイドル、ドラッグ、などなどへ向かわなくて安心。

しみじみそう思っております。今年もたくさん触れてみるつもり。応援ヨロシク!?
ライブ、リハーサル、まれにレコーディング。バンドの動きはこの3つが主。


それがない東京での週末~休日は何をしているかというと、、、

みなさんご承知かと思いますが、ボクはもっぱら「落語」にはまっている。
2月上旬は音楽。中旬は落語と決めていた。もう腹一杯になるくらいに見てやろうと。
それがようやくかなったというわけだ。金曜日に半ドン仕事を終えて電車に乗る。夕方到着。東京は凍てつく寒さ。

天気予報は雪マークが付いていた。伊豆とは比較にならないほど気温が低い。
そんな中、湯島天満宮へ。「ぎやまん寄席」柳亭市馬/柳家喬太郎の二人会。
境内にある古めかしい建物で会は開かれた。会場は超満員。ボクは3列目に座る。

両師匠は絶対にハズレがないという安心感がある。
だから逆いうと緊迫した雰囲気はない。ほんわかした空気の場内。
前座が終わり、喬太郎さんからスタート。噺に入って20秒。ま、ま、まてよ!

これはもしかしたら、、、いきなり大ネタではないか!その演目名は「文七元結」。
小一時間ほどかかる長尺。主に年末年始によくかかるネタなのだ。いやぁビックリした。
てっきり軽い噺、もしくは新作がくると思っていたから。これがまた素晴らしい内容だったのだ。

悪いけど一席目でこんな名演を目のあたりにしてしまうと、後の記憶が霞んでしまう。
過去の名人たちの映像や動画をたくさん見ているが、この日の喬太郎文七は最高レベルだと断言できる。


さて翌日。土曜日。


またしても冬将軍のお出ましかよ。夜7時前に新宿文化センターへ。駅から徒歩15分。
寒いのなんのって。ニット帽を目深に被っていても、耳が痛くなるほど冷たい風が吹いていた。
「瀧川鯉昇還暦お祝いの会」を見る。この方は眺めているだけで楽しい。落語もきれい。

ところがである。客に大バカ2人混入。何でもかんでも大笑いする巨漢ジジイ。
それと、落語家のしゃべる事にいちいち相槌を打つ隣のババアに邪魔をされた。
どちらも60代だろう。ご一緒したSさんも「あれはないですよね」と言っていた。

出演者に対する好意の表れなんだろうが、バカ丸出しである。不快指数を跳ねあげやがった。
この日のベストはゲスト枠で出演していた入船亭扇遊さんの「お見立て」でしょう。


その翌日。日曜日。


座っている時間が長い。腰痛になる。だがしかしボクの足は上野へと向かっていた。
4時間もある寄席はパス。もっと軽く見られる会は?調べたらありましたよ。
黒門町。落語協会オフィスの2階にある「黒門亭」である。出演は3人だけ。

主任(トリ)は春風亭百栄さんである。はたして新作落語はどうだろう?
う~ん、まぁ、ボクは古典が好みだ。300年も語り継がれているには理由がある。
そういうことだ。「現代」となったら漫才にはかなわないと思う。落語である必要を感じなかった。

3日連続で見に行ったわけだが、どれも終わってから居酒屋やバーで飲んだ。
シラフでなんかいられない。初日&2日目は落語好きな友人と杯を酌み交わした。
最終日はひとり酒。もつ煮とホッピー。しかも口直しに映画まで見てしまう。

トーホーシネマズシャンテで上映中の「ムーンライズキングダム」である。
12歳の子ども同士の「かけおち」が軸になったロードムービー。色彩感覚バツグン。
シーンのすべてどこかしらに「黄色」があしらわれていた。良質でポップ。オススメできる。



……というわけで、



とんでもない量の情報が頭の中へと突入し、それを酒で洗い流しているといった感じの3日間。

落語、映画、音楽、べつに何をどう忘れてもかまわない。

ボクは憶えている事だけで十分だから。


自分にとって、昨年2012年はメモリアルイヤーになった。


何が記念かって?


それは「落語」が好きになった事。いや、はまっちゃった。そのきっかけは柳家小三治だ。
2012年6月10日。場所は埼玉県/パルシティ志木。独演会。

演目は「天災」と「粗忽長屋」の二席。特にこの粗忽~の方は、落語たる落語の名作といえる。

一番最初に見たのがこれでなかったら、もしかして夢中になっていなかったかも。
もちろん小三治師のそれだから感銘を受けたのだ。おぉ、やはり「先が肝心」なんだな。
下記は今年1月~6月までで足を運んだ寄席、落語会、独演会、演劇落語である。



この一覧を見返してみると、好みの噺家さんがハッキリしてきた事がわかる。
柳家一門だと、小三治、さん喬、喬太郎、市馬、三三。
若手真打の一之輔、文菊。立川流は志らくが中心になっている。★マークは5点満点。

もちろんこれは個人的な範疇で付けたもの。高座だけでなく、客層も対象内。
1つ「採点不可」がある。あれは隣にいた馬鹿のせいで気分が台無しになったのでNG。
チケット料金が適正かどうかってのも入る。だって千円~六千円まで開きがあるから。

高価で並ではダメ。二千円で凄い芸を見せつけられた日にゃ大得した気分になるわけで。
いろんな部分を総合して思いおこしてみると、2人の噺家さんが頭に浮かんだ。
柳家喬太郎(文七元結)、春風亭一之輔(らくだ)である。ちなみに後者の会は木戸銭ナント千円!

演目自体がそもそもよくできた噺だが、きっちりと彼らの解釈が散りばめられていた。
落語は単なる“お笑い”とは違う。勧善懲悪のわかりやすさは無い。人間そのものを描いた世界。
だからどの噺も一筋縄にはいかないのだ。古典の奥深さはスゴイよ!


「笑いは後からついてくる」


これ、小三治の名言である。まだ当分ボクの落語熱は冷めそうにないようだ。




【2013年(上)/落語行脚】

◆1月5日
柳家三三独演会
小田原市民会館
「権助提灯」★★★
「妾馬」★★★
(ゲスト)
柳家権太楼「笠碁」★★★
◆1月18日
立川談笑「新春談笑ショー13'」
渋谷文化総合センター
「千早ふる」★★
「黄金餅」★★★
(ゲスト)
松元ヒロ★★★★
ポカスカジャン★★★★
◆1月19日
柳家小三治 主任
新宿末廣亭 正月ニ之席
「一眼国」★★★★

◆2月15日
市馬/喬太郎「ぎやまん寄席」
湯島天神
市「権助芝居」★★
市「首提灯」★★★
喬「文七元結」★★★★★
喬「肥辰一代記」★★★★
◆2月16日
瀧川鯉昇「鯉昇還暦を祝う会」
新宿文化センター
「武助馬」★★
「味噌蔵」★★★
(ゲスト)
喜多八「もぐら泥」★★
扇遊「お見立て」★★★★
◆2月17日
春風亭百栄 主任
黒門亭 二0七四回
「バイオレンススコ」★

◆3月9日
サンポップ寄席/菊之丞・文菊
荒川区・町屋サンポップ
文「親子酒」★★★★
菊「お見立て」★★
◆3月10日
古今亭菊之丞独演会
谷中・魚貝料理「彬」
「死ぬなら今」★★★
「お見立て」★★★
◆3月16日
快楽亭ブラック独演会 CD付
上野広小路亭
「?」★
「山崎屋」★★
「三人旅」★
「せむし茶屋」★★★
◆3月23日
柳家さん喬(昼) 入船亭扇遊(夜)
浅草演芸ホール
さん喬「抜け雀」★★★
扇遊「夢の酒」★★★

◆4月7日
柳家小里ん主任
池袋演芸場 上席
「木乃伊取り」★★
◆4月19日
第二回ハイカラ寄席
銀座ブロッサム
菊之丞「愛宕山」★★
喬太郎「抜け雀」★★★★
円楽「お化け長屋」★★★
◆4月20日
春風亭一之輔 主任
荒川区・根岸三平堂
「らくだ」~完演~★★★★★
◆4月21日
春風亭一之輔 主任
鈴本演芸場 下席
「らくだ」★★★
◆4月27日
春風亭一之輔 独演会
亀戸香取神社参集殿
「人形買い」★★★★
「鈴ヶ森」★★★
「百川」★★★★

◆5月4日
GW特別興行 柳家権太褸主任
鈴本演芸場 夜席
「居残り佐平次」★★★
◆5月18日
柳家三三 主任(柳朝代演)
鈴本演芸場 夜席
「木乃伊取り」★★
◆5月31日
立川談春 独演会
荒川区・サンパール荒川
「三方一両損」★★★
「包丁」評価できず(バカ客の為)

◆6月14日
柳家三三 月例会
霞ヶ関・イイノホール
「宮戸川」★★★
「佐々木政談」★★
「寝床」★★★
◆6月15日
三遊亭萬窓 主任
黒門亭
「さじ加減」★★
◆6月28日
赤坂レッドシアター
立川志らく/下町ダニーローズ
「死神が舞い降りる街」★★★
◆6月29日
柳家小三治 主任
新宿末廣亭 下席
「野晒し」★★★★


計22公演。


※下半期は地方で観てみたいと思っております。ではでは。



わかってますヨ。

自分が“普通”や“一般”とは違うタイプの性質だってことくらいは。


しかしね、世の中にはいろいろな人がいる。今年の夏休み、それを思いきり痛感した。
8月13~17日の5日間、ボクは沖縄へ行った。完全プライベートな一人旅。
しかしそれは飛行機の中だけ。那覇空港に玄米コージ(ジャンベ)さんが車で迎えに来てくれた。

彼は東日本大震災をきっかけにうるま市「宮城島」へ家族丸々移住したのだ。
去年6月、ザ・パイのパイ初の沖縄ライブで一緒してから、玄さん宅へ行く話が持ち上がっていた。
辺境地と言ったら大袈裟かもしれないが、那覇市から車で90分もかかるエリア。

絶景。もうそれは見る景色の1つ1つに声をあげた。海育ちのボクであるが、透明度がケタ違い。
海底道路を抜けると、うっそうと木々生い茂る小道をうねうねとひた走る。
いるよ、います。大量のハブが。数十万、いや百万匹以上はいるかもしれない。

港の近くに玄米さんの住む家があった。えっ!!ここに家族5人が住んでるのーっ??
テレビでよく見る古民家。クーラー無し。風呂場は離れ。その隣に豚小屋がある。
玄関正面に巨大な仏壇。とうぜん移住者だから仏様はない。何とそこにギターが一本置いてあった。



んで、いきなり旅の総括をする。毎日〃海へ行って、幾つものビーチをハシゴした。
舟で沖まで出て「タコ漁」に参加。地元漁師の皆さんと呑んだ。
15日は誕生日。玄さん一家に祝ってもらったり、ある漁師さんから貴重な泡盛をいただいた。

海底に5年間も寝かせておいたレアな島酒。最終日には友達の希音ちゃんとも逢えた。
すべての事を書き綴ったら枚挙にいとまがない。あえて一番大きく驚いた事を抜粋する。
ここで冒頭部に繋がる。ボクは人様より呑気に、また少しだけいろんな事を経験していると思う。


しかしですね・・・
玄さんにはかないません!


初日。到着して間髪入れずに港近くへ海水浴に出かけた。Tシャツを脱いだ玄さん。
ボクは思わず「あっ!」と叫んでしまった。なぜって彼は全身アザだらけなのだ!
左肩~腕、右脇腹、よく顔見ると右瞼と掌に縫合痕もある。とにかく傷だらけなんです。
玄さんはボソボソっとこう言った「少し前に馬に襲われたんです」…は?

またまた~、そんな冗談を言わないで下さいよ。このご時世に、しかも沖縄で馬なんか。
「いや、それがホントなんです。死ぬかと思いました」と、眼の奥は真剣そのもの。
近所にいるんですって、馬と山羊を飼っている夫婦が。自給自足生活をしているとか。

6月末日。奥さんのお客さんが訪れた時、サービス精神旺盛な玄さんはその馬小屋へ引率した。
酒を呑んで。これがまずかったのだろう。動物はアルコール臭のする人間を確実に格下扱いする。
馬を撫でて水をバケツ3杯飲ませた後、きびすを返し、山羊の方へ歩を進めた。と、その刹那!

いきなり背中を向けた51才を突き飛ばし、あろうことかマウントポジション。
つまり、本物の馬に馬乗りになられたのだ。必死に抵抗するも野生はそんなに甘くない。
お客は慌てて奥さんを呼びに行く。彼女は断末魔の光景を目にすることになるのだ。

玄さんは噛みつかれながらも決死の目潰し攻撃。昭和の悪役レスラーじゃあるまいし(笑)。
叫び声を聞きつけた隣人の男性によって両者(馬)は引き離された。119番。救急車要請。
午後3時。沖縄中部病院に緊急搬送された。そして各部位を縫うオペ、消毒、点滴。


「平馬ちゃんね、沖縄は病院ですら、の~んびりしてんの」


終わって家に着いたのは深夜2時(!)。その程度の手術なら2時間あれば終われると思うけど。
安静期間は2週間。3人の子供すら寄せつけず、ひとりで寂しく横たわっていたという。

転居してから1ヶ月も経たない頃の大騒動。噂は村の隅々まで一瞬にして広まった。
村人は荒くれ者が多い。漁師率が高いからだ。この方々がまた困った見舞いを連日しに来た。


「そんな傷は大した事はねぇ。馬にとったら甘噛みだぁ!」

「本気であれが怒って興奮していたら内臓を喰われちまうぞ!」


静養中だってのに慰めにもならん。とにかく新参者に対して厳しいのはどこの部落も同じか。
さて、なぜここまで克明に記す事ができたかというと、滞在期間中にノートにつけていたから。
最近ボクは記憶力がガクンと落ちている。しかし肝心なことを記録できていなかった。


馬の名である。


困ったなぁ。名前がわからないと文章にしまりがなくなる。被害者に連絡すればよいのだけど。
なんとか自力記憶を辿ってみよう。帰りのフライトは2時間半。あぁ、まるで思い出せない。
おまけに到着予定時刻を35分も遅れやがった。成田空港からの最終電車は22:32発。

間に合わず。最後にこんなオチがつくとはね。やりやがった「Airasia」め!
とりあえず行けるところまで進んでおこう。京成電鉄のキップ売場に向かって歩く。
電光掲示をチェック。あっ!「23:10上野行き」だって!その横に「お盆特別ダイヤ」とある。

まさにミラクル。こんな事ってあるんだなぁ。んで、再び脳内に電気がビッ!と走ったのだ。


馬の名わかる。


玄米コージに馬乗りになった荒馬の名前は『ボンちゃん』でした。

ボクはまた再び宮城島へ行くだろう。




「平馬」という名の人にいまだかつて会った事がない。
かなり変わっている部類の名前。苗字の平馬さんはいた。地方でライブをやると必ず「芸名なんですか?」
と、そう訊かれる。いやれっきとした本名です。五所平之助という映画監督が名付け親。

じつは、武八(ぶはち)、平助(へいすけ)などが候補にあった。さすがに依頼した祖父が却下したらしい。
よかったよぉ、武八じゃなくて!イニシャルが「B」なんて日本人じゃねぇもん。
あれこれ難航したところで、坂本龍馬フリークの父が平の下に馬を付けたのだ。これが名前の由来である。




さて、芸能関係の人たちは芸名がすごく多い。最初にうわ~カッコイイ!と思ったのは忌野清志郎さん。
彼の本名は「栗原清」ですからね。とてつもなくド平凡な名前だ。
RCサクセションというバンド名も意味不明(実は意味がある)で好き。やはりネーミングはとても重要である。


最近ひっかかるのは演芸方面の方々。特に落語家にたくさんいらっしゃる。
中でも「五街道雲助」師匠はダントツ。“ごかいどうくもすけ”と読む。
雲助一門は真打になると全員改名する。変わった名になるのだ。ちょっと紹介してみよう。


五街道 雲助/一門

桃月庵 白酒(総領弟子)
隅田川 馬石
蜃気楼 龍玉

※雲助の師匠は十代目/金原亭馬生。

上から、“とうげつあんはくしゅ”、“すみだがわばせき”、“しんきろうりゅうぎょく”
大師匠は“きんげんていばしょう”。この方はあの古今亭志ん生のご長男。すでに鬼籍に入られている。
みなさん素晴らしい響きの名前だ。そして落語も抜群です。特に白酒師匠の最近の活躍はうれしい。




パイの歴代女組はなぜか「子」が多数を占める。偶然にしてもこれはすごい。


アキコ
ナナコ
ヒサコ
ユウコ
タカコ


ケイトだけ違うが、子率の高さといったらご覧の通り。今、新生女児で◯◯子なんていないからね。
もはやクラシカルな域になってしまったけれど、ボクら世代の女名といったら◯◯子である。
どうしたってキャバ嬢如くの源氏名タイプはしっくりこない。ま、これは親の好みであり自由だからいい。

勇気ある親なら武八と付けてやれ。悪魔よりはずっと高貴だ。ボクは良くも悪くも平馬でよかった。
だが、雲助や馬石でも愛着は沸いていただろう。あ、祖父命名の傑作は「夕映」につきる。
読めますか?これ、“ゆうばえ”です。女いとこ。73年生まれ。このエピソードがおかしい。


名付けを依頼されたおじいちゃん、京都旅行をした時に新幹線車内でずっと考えたが決まらない。
そのまま観光して旅館にチェックイン。中居さんの案内で部屋に通された。その瞬間、決定!
「荻野様、こちらは夕映えの間でございます」あぁ、これほど身勝手で単純すぎる閃きもないもんだ。

叔父にはこう付け加えた、「不細工な娘になったら夕映を返上して糞蠅にしろ」だって。乱暴だよ。
当の本人は目鼻立ちのくっきりした顔立ちで、なんとか結婚して子宝にも恵まれた。よかったね。
ボクは死んだら、あの世で会いたい人がたくさんいる。清志郎のLIVEは見たい。

志ん生、小さん、談志の出演する寄席へ行きたいし、モネ、ゴッホ、中川一政の新作の絵が見たい。
しかし、真っ先に駆け込むのは五所平之助監督のところだろう。順番をまちがえちゃいかん。
まず、ちゃんとお礼をする。そして図々しくも、再びあの世での新しい名前を授けてほしいのだ。






さて、『落語』という演芸にはまって1年半になる。

去年に引き続き、じっさいに足を運んだ会の記録を残しておく。いやぁ~よく行ったよな。
ボクは基本的に伊豆在住。で、これはそうとうな数だ。こじ開けてでも落語時間を作ったもん。

でもって、“2013私的MVP”は昨年と同人物。柳家小三治師。演目は『うどん屋』。
11月・鈴本演芸場の口演。ぶっちぎりの断トツ。比類なき名人芸を堪能できました。

つづくところに、2月湯島/柳家喬太郎師『文七元結』。6月根岸/春風亭一之輔師『らくだ』でしょう。
古今亭文菊師『もう半分』もよかった。彼は真打ち昇進してわずか1年。未来の星か。

それなりに文句もある。料金設定のこと。独演会やホール落語のチケット代高騰。
4千円以上すると手が出せない。せめて3千円でしょう。2千円台だと良心的に思える。
大衆芸能として安定したポジションをキープしてもらいたい。それにはもっと価格を抑えるべきだ。

では一覧です↓

【2013年/落語行脚】

◆1月5日
柳家三三独演会
小田原・市民会館大ホール
「権助提灯」★★★
「妾馬」★★★
(ゲスト)
柳家権太楼「笠碁」★★★
木戸銭 \2500
◆1月18日
立川談笑「新春談笑ショー13'」
渋谷文化総合センター
「千早ふる」★★
「黄金餅」★★★
(ゲスト)
松元ヒロ★★★★
ポカスカジャン★★★★
木戸銭 \3600
◆1月19日
柳家小三治 主任
新宿末廣亭 正月ニ之席
「一眼国」★★★★
木戸銭 \1400(割引)

◆2月15日
市馬/喬太郎「ぎやまん寄席」
湯島天神/参集殿
市「権助芝居」★★
市「首提灯」★★★
喬「文七元結」★★★★★
喬「肥辰一代記」★★★★
木戸銭 \3000
◆2月16日
瀧川鯉昇「鯉昇還暦を祝う会」
新宿文化センター
「武助馬」★★
「味噌蔵」★★★
(ゲスト)
喜多八「もぐら泥」★★
扇遊「お見立て」★★★★
木戸銭 \2500
◆2月17日
春風亭百栄 主任
黒門亭 二0七四回
「バイオレンススコ」★
木戸銭 \1000

◆3月9日
サンポップ寄席/菊之丞・文菊
荒川区・町屋サンポップ
文「親子酒」★★★★
菊「お見立て」★★★
木戸銭 \2000(商品券付)
◆3月10日
古今亭菊之丞独演会
谷中・魚貝料理「彬」
「死ぬなら今」★★★
「お見立て」★★★
木戸銭 \1300
◆3月16日
快楽亭ブラック独演会
お江戸上野広小路亭
「?」★
「山崎屋」★★
「三人旅」★
「せむし茶屋」★★★
木戸銭 \3000(CD付)
◆3月23日
柳家さん喬(昼) 入船亭扇遊(夜)
浅草演芸ホール 下席
さん喬「抜け雀」★★★
扇遊「夢の酒」★★★
木戸銭 \1100(優待券)

◆4月7日
柳家小里ん主任
池袋演芸場 上席
「木乃伊取り」★★
木戸銭 \2500
◆4月19日
第二回ハイカラ寄席
銀座ブロッサム
菊之丞「愛宕山」★★
喬太郎「抜け雀」★★★★
円楽「お化け長屋」★★★
木戸銭 \3800
◆4月20日
春風亭一之輔 主任
根岸・ねぎし三平堂
「らくだ」~完演~★★★★★
木戸銭 \1000
◆4月21日
春風亭一之輔 主任
鈴本演芸場 夜席
「らくだ」★★★
木戸銭 \2200(割引)
◆4月27日
春風亭一之輔 独演会
亀戸・香取神社参集殿
「人形買い」★★★★
「鈴ヶ森」★★★
「百川」★★★★
木戸銭 \2000

◆5月4日
GW特別興行 柳家権太褸主任
鈴本演芸場 夜席
「居残り佐平次」★★★★
木戸銭 \3500
◆5月18日
柳家三三 主任(柳朝代演)
鈴本演芸場 夜席
「木乃伊取り」★★
木戸銭 \2200(割引)
◆5月31日
立川談春 独演会
荒川区・サンパール荒川
「三方一両損」★★★
「包丁」評価できず(バカ客の為)
木戸銭 \3800

◆6月14日
柳家三三 月例会
霞ヶ関・イイノホール
「宮戸川」★★★
「佐々木政談」★★
「寝床」★★★
木戸銭 \3300
◆6月15日
三遊亭萬窓 主任
上野・黒門亭
「さじ加減」★★
\1000
◆6月28日
赤坂レッドシアター
立川志らく/下町ダニーローズ
「死神が舞い降りる街」(演劇)
★★★
木戸銭 \6000
◆6月29日
柳家小三治 主任
新宿末廣亭 夜席
「野晒し」★★★★
\1400(19時割引)

◆7月13日
柳家喬太郎 主任
鈴本演芸場「夏のRー18」
「吉田御殿」★★★
木戸銭 \2800
◆7月26日
古今亭文菊 独演会
人形町・日本橋社会教育会館
「幇間腹」★★★
「もう半分」★★★★★
「妾馬」★★★★
木戸銭 \2800

◆9月1日
納涼 四派よったり競演会
小金井市民交流センター
志らく「浜野矩随」★★★
文治「源平盛衰記」★
喬太郎「幇間腹」★★★
兼好「権助魚」★★
木戸銭 \3500
◆9月3日
第8回 蕎麦寄席
伊東・蕎麦処 成木屋
喬太郎「幇間腹」★★
柳朝「武助馬」★★
龍馬(トリ)「井戸の茶碗」★
木戸銭 \4000(蕎麦と酒付)
◆9月14日
立川志らく 談笑 二人会
有楽町 よみうりホール
ゲ)野末陳平 松岡慎太郎
志「笠碁」★★★★
志「転失気」★★★
談「堀の内」★★
談「片棒・改」★★★
木戸銭 \4000

◆10月4日
柳家喬太郎 主任
池袋演芸場 昼席
「ぺたりこん」★★
木戸銭\2500
◆10月6日
柳家小三治 主任
鈴本演芸場 夜席
「うどんや」★★★★★
木戸銭\2600(割引)
◆10月12日
第3回あいえす寄席 桂文治
人形町・讀賣ビル
「源平盛衰記」★
「平林」★★
木戸銭 \1000
◆10月13日
立川談幸独演会
荒川区・ムーブ町屋
「木乃伊取り」★★★
「三軒長屋」★★★
木戸銭\2500
◆10月20日
柳家一琴独演会
神保町・らくごカフェ
「紋三郎稲荷」★★★
「権助芝居」★★
「抜け雀」★★★
木戸銭\1800

◆11月19日
入船亭扇遊 ひぐらし寄席
伊東・ひぐらし会館
「猫の災難」★★★★
「お見立て」★★★★
木戸銭\1000
◆11月30日
三遊亭遊三 遊三を聴く会
上野・広小路亭
「芝浜」★★★
木戸銭\1000(割引)

◆12月1日
喜多八・一琴「おさらいの会」
上野・落語協会2F
琴「柳田格之進 上」★★★
喜「ねずみ」★★★
琴「柳田格之進 下」★★★
喜「芝浜」★★
木戸銭\1500
◆12月16日
入船亭扇辰 主任
上野・鈴本演芸場 夜席
「竹の水仙」★★
木戸銭\2200(割引)
◆12月22日
柳家喜多八 主任
根岸・ねぎし三平堂
「お直し」★★★
木戸銭\1000
◆12月30日
桃月庵白酒 独演会
下北沢・下北沢711
「粗忽長屋」★★
「死神」★★★
「富久」★★★★
木戸銭\2500

☆2014年

◆1月4日
柳家三三 独演会
小田原・市民会館大ホール
「五目講釈」★★★★
「締め込み」★★★★
(ゲスト)柳亭市馬
「掛け取り風景」★★★★
木戸銭\2500


計39公演でした。


 興奮を鎮める為に、チンパンジーは交尾をするという。
ボクにとってそれは文章を書くことなのかもしれない…。

 『ザ・ローリングストーンズ8年ぶりの日本公演!!』

 2014年2月23日。ベロマークが施されたチャーター機でメンバー全員が一斉入国。
ミック、キース、チャーリー、ロニーの4人。皆さんもう立派な御老人である。
生え抜きの3人はすでに70オーバー。最年長のチャーリーは72才なのだ。

 今回はこのドラマー/チャーリー・ワッツについて寄せさせていただきたい。
まず、四半世紀前に遡る。その時分に彼が言い放った名言(迷言)を紹介しよう。
ストーンズ結成25周年の節目。お祝いムードのインタビュー中にぶっかましてくれた。

 「私が働いたのは最初の5年。あとの20年は居ただけだ」

 他のメンバーは“それなり”の発言をしていたが、チャーリーだけは違った。
すごいことを言うなぁ、面白い人だなぁ、けどボクは1番カッコイイと思った。
飄々(ひょうひょう)としている人物。ジャズとスーツをこよなく愛している。

 ロックスター特有のギラギラした暑苦しさは皆無。涼しげな雰囲気の持ち主。
しかし某音楽評論家から聞いた話だと、最も取材しにくいのはチャーリーだと。
何を考えているのかわからない不気味さを漂わせた性質だという。

 ちなみにフレンドリーで協力的なのはロニー。ミックはかなり性格悪いって。
なんだ、イメージ通りじゃないか(笑)。ボクがストーンズに突入したのは高2の秋。
喫煙がばれて停学になった時期。こりゃあ暇になるぞと。ネタを仕入れて部屋に籠ろう。

 小田原駅の地下街にあった「新星堂」でベスト盤を購入したんだ。
それから自宅謹慎の15日間、狂ったようにこのCDを聴く。
ドラムをはじめたあたりの頃だから、チャーリーのタイム感が染み込むのなんの。
まるで受刑者が般若心経を写経するように、ボクはストーンズの曲を叩きまくった。
CDの全17曲すべて体で覚える。これは今でもすぐに再現(プレイ)できるだろう。

 さて、ではチャーリーの演奏はどうかというと、はっきりいって「ヘタ」である。
技術という部分だけならば、およそ話にならないほど低いレベルだと思う。
さすが5年間しか働いてないだけはある。我流の極みみたいなスタイルだもん。

 ところが、チャーリーだからストーンズが50年も転がり続ける事ができたのだ。
たとえばもし違うドラマーだったら、絶対に空中分解していたはず。
フロント2人の性格をみたらすぐにわかる。80年代中期は常に一触即発状態。

 この危機を乗り越えられたのはチャーリーの一声、一睨みがあったからだという。
ミックとキースのまるで口を揃えたかのような回顧録をボクは何度も読んでいる。
やはりバンドって“人間の集合体”だから。「要」なる者が存在してこそつづく。
総合的に考察すると、ストーンズ=チャーリーの図式は揺るぎないものだといえる。
人間力ってやつ。つまりヒューマンパワー。ドラムの技量なんぞ最小限でよい。
ドン!タン!ドド!タン!ビートの真理はこれだ。ここに濃縮されているのだ。

 現代のドラマーは上手すぎる。特に20代の若い人たち。すごいもん。
勉強してるなって思う。情報に対して貪欲だし。凄腕ドラマーも育っていると聞く。
ライブハウスに出演しているインディ系の連中もそう。ド下手を見なくなったしね。

 けれど、その流暢さがかえってロックを“手段”として利用しているように見えてしまう。
「オレはこれだけ」という気概が感じられないのはなぜなのだろう?
それって“目的”としてロックを腹に納めていないからじゃないかと思うんだ。

 バンドが巨大化。地球規模の認知度を得てしまうと、虚実入り混ざってしまうもの。
だが、チャーリー・ワッツのスタンスだけは変化がない。ブレがない。スゲーことだ。
これを奇蹟と呼ばす他に何という?あったらすぐに教えてほしいものである。

 「石の上にも三年」なる諺があるが、「転石の上に50年」とは恐れ入った。

 「このくらいで十分」というのもR&Rである。春。東京ドーム。チャーリーに刮目する。



昭和62年。中学3年生。自分にとって特別な365日だった。

 何がってそれは、今まで「もっとも笑った1年間」に挙げる事ができる。
よくもあんな毎日毎日、ゲラゲラ爆笑できたものだと思う。
ふつう受験だなんだと、人によってはシリアスになるものだが・・
ボクはまったく他人事。とにかく日々、無節操なほど笑い転げていたのだ。

 3人集まりゃ何とやら。よくつるんでいた友達は、「ゆーきゃん」と「タカシ」。
伊豆に住むタカシとは今でも飲み友達。つい最近、彼は結婚した。
その披露宴の司会をボクが担当。当日まで打合せと称し、何度か杯を交わす。

 そこで、「ゆーきゃん元気かね?」「どうだろな」とまぁそんな話になった。
「じゃあ会い行って確認すっか」「おぅ、わかった」で、旅行決定。
現在、ゆーきゃんは札幌に住む。だからこの旅は北海道ツアー(2泊)になった。

 タカシの奥さん(ミーマス)も参加。妊娠8ヶ月。お腹もかなり大きい。
しかしこの彼女、独身時代はニュージーランドに長く住む。
各国を飛び回っていた人。スポーツ万能。北海道くらいは近所だと思っている。

 さくっと航空券+宿泊+レンタカーのセットプランを予約。
2014年4月12日。四十路男2&妊婦1の「三人旅」がスタート。
午前11時。羽田空港発。新千歳空港まで90分。あっという間に到着。

 レンタカーの手続き。バッタのような緑色のデミオが用意されていた。
ゆーきゃんの勤める「Sビール園」まで車で50分で着いた。早すぎる。
ナビの予測より30分近く短縮。高速道路を飛ばしまくったからだ。

 運転したタカシはのんびりした性格。しかし空腹になるとやたらせっかちになる。
広大なSビール園のド真ん中で、ゆーきゃんは我々を待っていてくれた。
そこでジンギスカンと生ビールをいただいた。抜群に美味い。最高だ。

 ゆーきゃんは3つの店舗の支配人。仕事に戻る為、30分で退席。
だが、あっという間に中学生に戻った感じ。ボクらは博物館へ移動する。
ガイドさん付。そこでSビールの歴史を学び、上手なビールの注ぎ方を習った。

 終わって再びホールへ。開拓史ビールをぐびりとやる。ホロ酔い。
ホテルのチェックインは6時を過ぎた頃。しばし休憩も、三人の意識は晩飯へ。
ミーマスの友人から仕入れた情報に忠実に従う。ガイドブックはあてにならん。

 ススキノを回遊してから海鮮居酒屋で宴会。刺身の舟盛り¥1180!?
味もなかなかだった。それにしてもタカシの飲みっぷりだよ。
昼からひたすらビールを飲み続けている。体はボクより1回り小さいのに。

 この時点で、後の地獄をボクは想像していなかった。二次会は部屋飲みで。
深夜1時就寝。部屋にあるセコいベッド。エクストラベッドってやつか。
これがもうセコを通り越したポンコツなのだ。スプリングが完全にイカれてら。

 ギ~ッコ、ギ~ッコ、ギ~ッコ・・・

 ちょっとの動きでもギ~ッコが鳴りやまない。こりゃたまらんよ!
そして追い討ちをかける騒音問題が大噴出!酔ったタカシの巨大ないびきである。
生まれて41年。こんな壮絶なうめき声を聞いた事がない。軽い殺意。

 グガーッ!!ギ~ッコ、ギ~ッコ・・

 グガ~ッ!!ギ~ッコ、ギ~ッコ・・

 あぁ、いけないと思いながら睡眠導入薬を口の中へ2錠放り込んだ。
耳には栓代わりのイヤフォン。それでも響音が直撃してくる。
旅の初日で疲れているのに、眠りについたのは、ナ、ナント4時だった。



 2日目。目覚め?最低にきまっているではないか。3時間しか寝てねぇんだ。
よく眠れたな~という顔したタカシに、金輪際いびきをかくなと警告。
そしてホテルのフロントへは、ギ~ッコベッドの交換を申し出る。

 一行は朝食もとらずに車に乗り込み、「余市」へ向かった。
途中、1つのプリンを野郎2人で分け合う展開に。後部座席のミーマスが笑う。
およそ90分後、「ニッカウイスキー工事」に到着した。石造りの古い建物。

 こごでもまたガイドさんと一緒に見学する。〆は待ってました!の試飲だ。
ニッカさん大盤振る舞い。ありがたや。午前中のウイスキーは効いた。
運転から解放されたタカシ、ビール飲みっぱなし。この時だけ動きが素早い。

 午後から小樽に入る。運河のあたりから北一ガラスのある通りまで歩いた。
喫茶店で地ビールを飲む。ここのあたりで寝不足の影響がもろに出る。
帰りの車中でうたた寝。いったんホテルに戻り、少し横になろう。

 ベッドが新しい。こりゃいい。ところが、朝から飲みのタカシは止まらない。
9時。さすがに腹が減る。某ピザハウスへ。店内は異様な雰囲気。ははーん。
各テーブルを見回してすぐわかった。ボブ・ディランを見終えた客だと。

 ボクらの背後に、ディラン関連の著書を数多く出しているH氏の姿もある。
およそ堅気とは思えない様装。「夜なのに真っ黒いグラサンかけてるよ!」
タカシ、やめろ。声デカイっつうの。食事の後、ミーマスだけ部屋に帰った。

 2人でススキノ方面へ。裏通り。やたらといかがわしい風俗店がたち並ぶ。
キョロキョロしながら、「熟女ソープだとよ!どんなババアが出てくんだろなぁ」
タカシ、やめて。と、気付くとポン引き数人が揉み手しながら近寄ってきた。

 そこでも彼のペースは変わらない。「札幌は寒いねぇ、伊豆は桜散ったから」
たかだか2泊の旅行で、何度このフレーズを聞いたかわからない。
ポン引きもきょとん。とにかく早く店に入るに限る。え~い、ここにしちまえ。

 煙モウモウ。炉端焼きの店?暖簾をくぐるとカウンター席のみの店内。
しかも客同士がひしめき合っている。ヤバッ!なんとそこはジンギスカンの店。
昨日、Sビール園で上級な肉を食べたばかりである。だが時すでに遅し。

 飲み直しの二次会が焼肉になるとは。まさかの展開となった。
それでもしっかり飲んで食べる。そして、部屋飲みもきっちり。
まさに死期を早めるような“暴飲暴食”。病人なら昏睡する量だ。

 でもって、この夜もあったよ、やつのオンステージが。もう黙っていられん。
枕を剥奪。無理やり寝相を横向きに変えた。ん?あっさり静かになりやがんの。
昨夜の喧騒が嘘のような静寂に包まれる。それはそれで眠れない。




 3日目。8時起床。部屋は15階。その窓から広い「中島公園」が一望できる。
“平馬ったんを探せゲーム”やるぞ。園内に入り身を潜めるように歩く。
すぐ写メが。そこには部屋窓から撮られたボクの姿が。ゲームオーバーである。

 朝っぱらからくだらない遊びをしたものだ。10時半、再びゆーきゃんと合流。
近くにある味噌ラーメン専門店「けやき」で腹ごなし。もちろん朝ビールも。
一杯飲んだら酔いがまわった。夜の飲酒とは明らかに違う。いいもんだ。

 午後3時の羽田空港行きの飛行機に乗り、2泊3日の三人旅は幕をおろした。
地元に着いたのは午後7時45分。小腹減らない?中華居酒屋へ突撃。
そこでもタカシは生ビール。グビッと喉を鳴らしていた。ところで何杯目?

 初日・昼~最終日・夜まで、いったいどのくらいの量を飲んだというのだ。
飲みながら飲んだ数をチェックする。結果はジョッキ「28杯」と出た。
昨日だけで14杯か。欲望のまま飲むとこのくらいの数字になるのかね。

「おぅ、じゃあキリのいいところで30にしておくよ」

 ミーマスは呆れ顔。そりゃそうだ。だけど、どうか彼を許してあげて。
40才を越え年齢を重ねると、いちいち理屈や理由が先行しがちだ。
この旅行もボクの中では純然たるテーマがあった。こじつけとも言うが・・

 それは、「友達が遠く離れたのなら、会いに行くのが友情の証だ」と。
けどさ、気の向くまま、風の吹くまま、な~んも考えない旅の方が楽しい。
それを今回、彼らたちから教わったような気がする。笑いっぱなしの中3時代。
旅行中も同じ。ちがうのは酒量くらいだ。3日間、ホントに楽しかった。


 また彼らと遠くへ行きたい。

 あいつのイビキだけは勘弁だけれど。


そのうち飽きるだろうと客観的に思っていたのだが、どうもその気配すらない。
2014年も、時間をこじ開けてでも寄席や落語会へ足を運んだ。東京はいいよな。
毎日どこかで必ず落語をやっている。地方はほとんどない。そりゃそうだ。
伊豆半島には映画館すらないのだ。文化レベル云々を言うつもりはないが・・・
もっと積極的に噺家さんたちを呼んでもらいたい。学校寄席でもいいじゃない。
200年以上継承されてきた伝統芸能には、言葉で言い尽くせない凄みがある。
できれば物書きを覚えたばかりの子供たちに触れさせておくべきだと思う。
アナログの底力だ。というわけで、ボクの「落語行脚」の記録をお届けしよう。

◇1月

1月4日 柳家三三独演会
小田原・市民会館大ホール
「五目講釈」
「締め込み」
(ゲスト) 柳亭市馬
「掛け取り風景」
木戸銭¥2500(当日券)

1月19日 立川談幸独演会
浅草・ことぶ季亭
「たらちめ」
「明烏」
「御神酒徳利」
木戸銭¥2000(予約)

◇2月

2月1日 隅田川馬石 主任
池袋演芸場 上席
「幾代餅」
木戸銭¥2500

2月2日 喜多八・一琴 おさらい会
上野・落語協会2階
喜多八「三十石船道中」
一琴「粗忽長屋」
喜多八「流行日記」
一琴「松山鏡」
木戸銭¥1500

2月15日 七転八倒の会
神楽坂・毘沙門天
龍玉「鰻屋」
喜多八「三十石船道中」
龍玉「夢金」
喜多八「紺屋高尾」
木戸銭¥2500(当日券)

2月16日 宮元落語の会2014
文京区・本駒込交流センター
馬石「粗忽の釘」
馬石「妾馬」
木戸銭¥1000

◇3月

3月2日 柳家一琴 主任
黒門亭 第二部
一琴「夢八」
木戸銭¥1000

3月4日
西巣鴨 スタジオフォー
馬石「安兵衛狐」
文菊「長屋の花見」
木戸銭¥1000

3月29日 立川談幸独演会
浅草・ことぶ季亭
「雑俳」
「百川」
「淀五郎」
木戸銭¥2000(予約)

◇4月

4月11日 一之輔 文菊 二人会
水天宮前・日本橋公会堂
文菊「千早ふる」
一之輔「普段の袴」
一之輔「粗忽の釘」
文菊「甲府ぃ」
木戸銭¥2500(2階自由席)

4月26日 萬橘 志の春 たけ平
谷中・はなし処
萬橘「出来心」
志の春「新作」
たけ平「幾代餅」
木戸銭¥1500

◇5月

5月4日 らくごin庚申塚4の日
巣鴨・スタジオフォー
馬石「粗忽の釘」
龍玉「親子酒」
木戸銭¥1000

◇5月30日 菊之丞 馬石 二人会
人形町・日本橋社会教育会館
菊之丞「唐茄子屋政談」
馬石「安兵衛狐」
馬石「締め込み」
菊之丞「短命」
木戸銭¥3000(予約)

◇6月

6月13日 三遊亭白鳥主任
上野・鈴本演芸場
「三大噺」
木戸銭¥2500(割引)

6月14日 黒門亭 第一部
上野・落語協会2階
歌武蔵「植木屋娘」
菊之丞「お見立て」
木戸銭¥1000

6月15日 立川左談次一門会
巣鴨・スタジオフォー
「妾馬」
木戸銭¥2000(予約)

6月27日 柳家小三治 主任
新宿・末広亭
「粗忽長屋」
木戸銭¥1500(割引)

◇7月

7月21日 拝鈍亭 古今亭文菊
雑司谷・本浄寺
「七段目」
「甲府ぃ」
寄付¥500

◇8月

8月3日 立川志の輔 独演会
下北沢・本多劇場
「牡丹灯籠」
木戸銭¥4500(前売り)

8月29日 さん喬・鯉昇二人会
清澄白河・深川江戸資料会館
さ「片棒」
鯉「舟徳」
鯉「餃子問答」
さ「百川」
木戸銭¥3000(前売り)

8月31日五街道雲助 主任
上野・鈴本演芸場
「中村仲蔵」
木戸銭¥2500(割引)

◇9月

9月13日 三遊亭とん馬 主任
上野・広小路亭
「替り目」
木戸銭¥1000(割引)

9月14日 古今亭菊之丞 独演会
町屋・ムーヴ町屋
「寝床」
「淀五郎」
ゲ)一之輔「普段の袴」
木戸銭¥2500(前売り)

9月27日 春風亭一之輔 独演会
亀戸・香取神社参集殿
「新聞記事」
「がまの油」
「明烏」
木戸銭¥2000(予約)

◇10月

10月7日 入船亭扇遊 独演会
伊東・ひぐらし会館
「青菜」
「お見立て」
木戸銭¥1000(前売り)

10月11日 金原亭馬生 独演会
人形町・読売IS本社 2階
「稽古屋」
「百年目」
木戸銭¥1000(前売り)

10月18日 柳家小三治 独演会
神奈川・秦野市民文化会館
「転宅」
「時そば」
木戸銭¥3800(前売り)

◇11月

11月7日 隅田川馬石 主任
浅草演芸ホール・夜席
「崇徳院」
木戸銭¥1200(割引券) 

◇12月

12月5日 喜多八・一琴おさらい会
黒門町・落語協会2F
一「突き落とし」
喜「宿屋の富」
一「花筏」
喜「睨み返し」
木戸銭¥1500(当日のみ)

12月21日 日曜寄席
足立区・舎人センター3F
鯉朝「子別れ 下」
駿菊「子ほめ 小噺付」
木戸銭¥1000(当日)

12月22日 柳家喜多八お稽古会
黒門町・落語協会2F
「長屋の算術」
「二階ぞめき」
「文七元結」
木戸銭¥1500(当日のみ)

【合計31回】

今年No.1の高座は、8月29日・瀧川鯉昇『船徳』がダントツでした。
ボクは落語で笑いをまったく求めていない。単に薄ぼんやりしに行っている。
それなのに、こんなに笑ったのは初めて。腹が痛くなってしまったもん。
ちなみにこの日、鯉昇師匠は退院後の復活日だった。信じられません!!
 ずいぶん間の抜けたタイミングになってしまったが、昨年(2015年)の落語生観賞の記録である。
前年と大きく違うのは、寄席や会に足を運ぶ条件。大衆演芸に高い銭を払うことに抵抗がある。
いや、それだけの価値があればためらわない。古典の凄みを掴んでいるいる演者が少なすぎだ。
ちゃんとしている落語家が、ちゃんとした高座を繰り広げてくれたら文句はない。
たとえ当座の出来が悪いと感じても仕方ないと思う。名人上手も同じ人間なわけで。
そのかわり最初っからどうしようもないのは開口45秒でわかる。ダメが覆ったことはまずない。
不味い芸でよく飯を食っていけるもんだ。見てるとどうも若い真打ちやベテランに多い。

 遅ればせながら「ラク女」と呼ばれるブスも増えた。イケメンなんて言葉にかこつけやがって。
よくもこんな出涸らし用語を使えるものだと呆れる。それにしがみつく若手の醜さったらない。
固有名詞を出してもいいが、あれも、これも、それも、となるのでやめておく。
個人的にショックだったのは「喜多八・一琴のけっこう毛だらけ」という二人会が終わったこと。
これぞ“落語会”というような雰囲気のよさ。両師匠はもちろん、客筋も素晴らしかった。
千人、二千人、巨大な会場で見るホール落語では味わえない風情がそこにあったように思う。
喜多八師匠は右足に病を抱えており、現在も加療しながら高座をつとめてらっしゃる。
もしかすると叶わぬ夢かもしれないが、再びこの二人会に期待したい。
バンド再結成ライブは野暮だが、“ちゃんとした”噺家の落語会は早期復活してほしいものだ。

 ・・・では、一覧デス。

☆1月

1月2日 古今亭文菊 主任
御徒町・落語協会2階(黒門亭)
「居残り」
木戸銭¥1000

1月16日 鬼不動出版記念
新宿・紀伊国屋ホール
らく次「鬼不動」
志らく「火焔太鼓」
木戸銭¥2000(前売り)

1月31日 隅田川馬石 主任
御徒町・落語協会2階(黒門亭)
「火事息子」
木戸銭¥1000

☆2月

2月1日 喜多八一琴けっこう毛だらけ
御徒町・落語協会2階
喜多八「お節徳三郎」
一琴「大工調べ 序」
喜多八「長屋の算術」
一琴「夢八」
木戸銭¥1500

2月16日 立川流広小路寄席
上野・お江戸広小路亭
談修(ぜん馬代演)「鼠穴」
木戸銭¥1000(割引)

☆4月

4月21日 談四楼・鯉昇二人会
上野・お江戸広小路亭
談四楼「三方一両損」
鯉昇「茶の湯」
鯉昇「粗忽の釘」
談四楼「濱野矩随」
木戸銭¥1500(予約)

4月24日 三代目 林家正楽
御徒町・松坂屋(6階催事場)
「相合い傘」「横顔」「藤娘」
「龍」「七福神」
入場無料(「寄席紙切り百年」購入)

☆5月

5月2日 瀧川鯉昇独演会
新宿・ミュージックていと
「鰻屋」
「千早振る」
「へっつい幽霊」
木戸銭¥2000(予約)

☆6月

6月12日 喜多八 一琴 二人会
御徒町・落語協会2階
喜多八「元犬」
一琴「酢豆腐」
喜多八「船徳」
一琴「てれすこ」
木戸銭¥1500

6月27日 柳家小三治 主任
新宿・末廣亭6月下席
「野晒し」
木戸銭¥1500(割引)

☆7月

7月10日 日暮里特選落語会
日暮里・日暮里サニーホール
燕路「青菜」
小文治「殿様団子」
吉窓「四段目」
談幸「へっつい幽霊」
木戸銭¥1800(予約)

7月19日 三平堂落語会
根岸・三平堂
馬石「千両みかん」
木戸銭¥1000(当日のみ)

☆8月

8月1日 喜多八 一琴 二人会
御徒町・落語協会2階
一琴「天災」
喜多八「夏泥」
一琴「黄金の大黒」
喜多八「夕涼み」
木戸銭¥1500(当日のみ)

8月2日 立川談春「もとのその一」
渋谷・シアターコクーン
「たがや」
「小猿七之助」
「居残り佐平次」
木戸銭¥5400(前売り)

8月15日 立川志らく 30周年記念
有楽町・よみうりホール
テツandトモ
喬太郎「裏路地の伝説」
爆笑問題
志らく「親子酒」
トークショー/高田文夫
¥5000(譲り価格¥4000)

8月29日 春風亭一之輔主任
上野・鈴本演芸場 下席
「短命」
木戸銭¥2500(割引)

☆10月

10月2日 喜多八・一琴 二人会
御徒町・落語協会2階
喜多八「三人旅」
一琴「金明竹」
喜多八「愛宕山」
一琴「三十石夢の通い路」
木戸銭¥1500(当日のみ)

10月5日 柳家小三治主任
上野・鈴本演芸場 上席
「千早ふる」
木戸銭¥2500(割引)

10月6日 入船亭扇遊 ひぐらし寄席
伊東・ひぐらし会館
「片棒」
「妾馬」
木戸銭¥1000(前売り)

10月10日 柳家小三治 主任
上野・鈴本演芸場 上席
「一眼国」
木戸銭¥2800

10月11日 古今亭菊之丞 柏落語会
北柏・たんぽぽホール
「片棒」
「ねずみ」
木戸銭¥1300(予約)

☆11月

11月2日 小えん・喜多八「試作品」
御徒町・落語協会2階
小えん「新作」
喜多八「錦の袈裟」
小えん「悲しみのぐつぐつ」
喜多八「睨み返し」
木戸銭¥2000(当日のみ)

11月13日 菊之丞(昼) 一之輔(夜)
池袋・池袋演芸場 中席
菊之丞「死神」
一之輔「富久」
木戸銭¥2000(割引)

11月21日 三平堂落語会
鴬谷・根岸三平堂
さん喬「笠碁」
木戸銭¥1000(当日のみ)

11月22日 日曜朝のおさらい会
池袋・池袋演芸場
権太櫻「二番煎じ」
権太櫻「芝浜」
木戸銭¥1500(当日のみ)

☆12月

12月4日 喜多八・一琴 二人会
御徒町・落語協会2階
一琴「位牌屋」
喜多八「黄金の大黒」
一琴「引っ越しの夢」
喜多八「キセル」
木戸銭¥1500(当日のみ)

(追記)
ベストの落語会は同点で2つ。
○2月1日  喜多八・一琴 二人会
○8月15日 立川志らく30周年
合計26回。